昭和52年に告示された学習指導要領の改訂は、よく覚えている。時間割に「ゆ」と書かれた「ゆとり」の時間が始まったからだ。とすれば私たちは、ゆとり第一世代なのか。
この改訂で、小学校4年生の歌唱共通教材から「村のかじや」が外された。♪しばしもやすまず つちうつひびーき♪ トンカントンカンと鉄を打つような心地よいリズムが消えた。
三木市上の丸町の三木市立金物資料館前に「村のかじや」記念碑がある。歌詞が陽刻されている手前の銅製の箱は、炭火を熾す風を送る鞴(ふいご)である。
童謡ゆかりの地は、本ブログでもいくつか紹介したことがある。「たきび」の作詞者、「十五夜お月さん」の作曲家、「一番星みつけた」の作詞家、「金太郎」の作曲家などである。多くはその人が暮らし、イメージを膨らませたと思われる場所だ。
「村のかじや」も、金物のまち三木で生まれたのだろうか。説明板を読んでみよう。
昭和五十五年(西暦一九八〇年)四月に小学教科書から唱歌「村のかじや」が姿を消す。時代にそぐわないとの理由だが、大正初期から七十年近く全ての人に親しまれてきたこの唱歌は、作者不詳で帰る地もない。
金物産業で繁栄する三木市は、ふいご(鞴)と鎚の鍛冶のまちとして、伝統を歌詞そのままに継承してきた。
いま近代産業へと発展したのであるが、鍛冶の昔の労苦を偲び伝承するのもつとめであると考え、業界と三木を愛する人たちによって、この唱歌の記念碑を建立した。
市民はもとより、鍛冶の里をお訪ね下さった人々にも心のふるさととして、この碑の前で幼き日日を懐かしんでいただければ幸せである。
昭和五十三年十二月八日
唱歌「村のかじや」記念碑建設委員会
昭和52年改訂の学習指導要領は、昭和55年に小学校において完全実施された。私は実際の鍛冶屋の仕事なんぞ見たこともないが、改訂前に教えてもらったので、懐かしさとともにリズムを思い出すことができる。
三木にゆかりかと思ったら、作者不詳でホームグラウンドがないという。それでは気の毒ということで、大工道具などの打刃物(うちはもの)で有名な三木の人々が引き取ったというわけだ。
「播州幹打刃物」は経済産業省指定の伝統的工芸品である。三木合戦で荒廃した街の復興事業に始まるという長い歴史があり、手引きのこぎりでは全国シェア約7割を誇るという。身近なもので有名なのがコレだ。
「肥後守」である。写真は「ありがとう三木鉄道」バージョンで、三木鉄道も今や懐かしい風景となってしまった。今の子どもたちは、肥後守のようなレトロな刃物で鉛筆を削ることはなく、単に昔の道具にしか見えないだろう。
道具も音楽も時代とともに変化するのだから、「村のかじや」を復活させろ、などど言うつもりはない。ただ「時代にそぐわない」と切り捨てるだけでよいのか、という問いは発しておこう。子どもたちは歌詞やリズムから想像して豊かな世界を頭の中に描くことができる。音楽の時間に、将来にわたって思い出にできるような曲に出会えることを願うのみである。
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