歴史上の人物には、史跡の多い人とそうでない人がいる。史跡が多いからといって、歴史に果たした役割が大きいわけではない。
具体的には、楠木正成と足利尊氏。正成を顕彰する碑や銅像は本ブログでも何度も紹介したことがあるが、尊氏を顕彰する史跡は少ない。歴史の流れをつくったのが、尊氏であるにもかかわらず…。
忠臣である大楠公正成がもてはやされた近代は、銅像や石碑など、顕彰モニュメントが好まれる時代であった。正成の史跡の多さは、史実を検証した評価によるものではなく、南朝正統論に基づく忠臣ブームの結果である。
芦屋市楠町に「大楠公戦跡碑」がある。昭和十年の建立で、揮毫は陸軍大将本庄繁、満州事変の際の関東軍司令官である。
時代を象徴する堂々とした石碑である。今は平和の豊かさを享受する芦屋の地で、いったいどのような戦いがあったのだろうか。当時作成された説明板を読んでみよう。
大楠公戦跡略記
延元元年正月末足利尊氏京都に於て戦破れ丹波路を迂回し兵庫に敗走す。二月十日大楠公進みて此地に陣す。賊勢再挙して公の軍に迫り激戦夜に及ぶ。官軍夜半潜かに大阪街道に詐り引く。十一日賊軍京街道を進み豊島河原(現大阪府豊能郡箕面村)に於て新田北畠の軍と交戦し亦夜に入る。大楠公機に乗じ背後を奇襲して功を奏し敗軍を急追して此地に大捷す。賊軍倉皇として兵庫に退き海路九州に敗走す。時に大楠公齢四十三歳にして湊川戦より約百日前の戦なりき。
精道村教化団体連合会 昭和十一年五月誌
精道村は芦屋市のかつての名称である。当時は国民教化運動により、忠臣大楠公の顕彰が盛り上がっていた。
後醍醐帝を裏切った尊氏の賊軍は、いったん京を制圧したものの、官軍の反抗により兵庫に退いていた。建武三年(1336)二月十日にこの地で両軍は激突した。
『太平記』と『梅松論』とでは少々記述が異なっており、説明板の記述は『梅松論』に基づいている。関係部分を読んでみよう。
(尊氏軍は)二月十日兵庫を御立有ける所に、宮方にも楠大夫判官正成和泉河内両国の守護として、摂津国宮浜に馳合て、追つ返しつ終日戦て、両陣相支ふる処に、夜に入て如何おもひけむ、正成没落す。
摂津国宮浜をここ「打出浜」と見なしているのだ。この戦いで正成は、夜半に軍を引き揚げてしまう。どうやら陽動作戦だったようで、その後、持ちこたえられなくなった尊氏軍は九州へと敗走する。
この打出浜の戦跡は、どちらかが決定的な勝利を得た場所ではなく、その後も長く続く戦いの一場面に過ぎない。それでも、これほど大きなモニュメントが建てられたのは、大楠公とのゆかりを活用して「忠君愛国」の国民教化を進めるためだったのだろう。楠木正成は戦前日本の広報宣伝部長であった。
「大楠公戦跡碑」のそばに楠児童遊園が整備され、親子連れの憩いの場となっている。戦争に向かう国民を鼓舞していた大楠公は今、近所の親子とともに平和を享受している。