『いだてん~東京オリムピック噺~』が最低視聴率の一桁に終わったが、かつての『平清盛』のように非難する声を聞かない。むしろ「名作」との評判もあり、うちの家族は欠かさず見ていた。このブログでも紹介した岸清一とその役をやった岩松了がそっくりだとか、コアなファンならではの話題もあった。
前半の主役であった中村勘九郎の金栗四三は、日本初のオリンピックマラソンランナーである。明治45年のストックホルム大会本番では、レース途中で倒れてしまい結果は残せなかったが、昭和42年にストックホルムに招かれゴールを果たすという粋な計らいも受けている。その時の映像や記録(54年8か月6日5時間32分20秒3!)は、『いだてん』最終回で紹介されていた。
本日紹介するのは、金栗と同じような草創期のマラソン選手である。訪問地は岡山県の北東端だが、走れる距離ではないので車で行くことにしよう。
岡山県英田郡西粟倉村大字坂根に「郷土の生んだマラソン大選手の生家」がある。
いったい誰だろう?と思わせるタイトルだ。説明板を読んでみよう。
明治39年(1906年)朝日新聞社によって津山城より江見村(作東町江見)までマラソン大会が行われることになりました。
農業をする傍ら坂根郵便局の先走り(逓送の仕事)をしていた東荒吉さんは、同年齢の金子長之助さんらの勧めもあって出場することにしました。
22歳の荒吉さんは日頃鍛えた自慢の足で走り優勝の栄冠を勝ち取りました。
優勝旗と共に米1俵のほか、多くの賞品を貰ったそうです。
マラソン大会といっても公式種目としてのフルマラソンではなく、ロードレースのようなものだ。上野安中藩の「安政遠足」が日本マラソン発祥と呼ばれることがあるが、現在のような長距離レースというイメージなら、この明治39年の東美作マラソン大会(そんな名前かどうか知らないが)はかなり早い時期に位置付けられるだろう。
さすがは東荒吉さん、郵便物を運ぶ業務で鍛えた持久力が素晴らしい。レース出場を進めた郵便業務仲間の金子長之助さんも偉業を達成している。
同じく大字坂根に「金子長之助君生誕の地」と刻まれた石碑がある。明治百年記念として英田郡体育協会と西粟倉村によって建てられた。
金子さんが出場した大会が、一般的には「日本マラソン発祥」と呼ばれている。その大会で金子さんは優勝した。つまり、日本初のマラソン王なのである。詳しいことは説明板で読むことにしよう。
郷土の産んだ日本第1回のマラソン王優勝者の生家
明治42年(1909)第1回大阪毎日マラソン大会が、神戸湊川公園から大阪西城大橋までの区間(20マイル)で開催されました。出場した金子長之助さんは26才、わらじ履きでカ走。2時間15分54秒のタイムでみごとに優勝の栄誉に輝きました。当日参加した選手は408名でした。大阪府知事、神戸市長、大阪毎日新聞社社長などから贈られた数々の賞品は、姫路より特別に作られた荷車2台で家に送られました。
日本スポーツ史に名を残した金子さんだが、3年後のストックホルム五輪には出場していない。なぜだろう。調べてみると、次のような記述が見つかった。山陽新聞社『新聞記事と写真で見る世相岡山 昭和戦前明治大正編』より
後の本人談によれば母親が「あまり遠くへ行ったら帰ってこられなくなる」と反対したからだという。
なるほど、それではしかたない。だが、日本初のオリンピックマラソンランナーの候補選手がここにいたことは記憶にとどめておくべきだろう。金子さんはその後、智頭町八河谷に婿入りして綾木さんとなり、晩年までよく体を動かしていたようだ。
毎日新聞の「関西50年前」という連載で、綾木(旧姓金子)長之助さん(83歳)が山道をお孫さんと走る姿が掲載された。昭和41年5月20日に撮影され、この年の6月に行われる「第21回毎日マラソン」(琵琶湖畔)に招待された、と紹介している。
私も走るのは嫌いではないが、地道な努力をするのは面倒だ。それでも5キロくらいならなんとかなるだろうと思って長年、蒜山マラソンの5キロレースに出場して、実際なんとかなっていた。ところが今年、蒜山マラソンから5キロが消え、3キロか10キロを選択しなければならなくなったのである。
そこで、おそるおそる10キロに出場したのだが、これが意外な快走で、あと少しで1時間を切れたのにというタイム。なんだ自分できるじゃんと調子づき、綾木翁の健脚にあやかりたいと思っているところだ。