大相撲11月九州場所で新入幕を果たした「若隆景」は、いきなりの4連勝だったがケガのため5日目から休場した。兄が二人いて「若隆元」「若元春」というそうだ。なんと毛利三兄弟が力士として現代に蘇ったのである。
兄はまだ幕下、十両であり、新入幕は若隆景が一番となった。史実においても、隆元と元春は秀吉の天下統一前に亡くなっており、秀吉政権下で最も出世したのは隆景であった。中納言にまで登ったことから「三原中納言」と呼ばれた。今日は、隆景ゆかりの備後三原からレポートしよう。
三原市本町一丁目に「小早川隆景公之像」がある。昭和41年春に尾道出身の彫刻家、矢形勇によって制作された。矢形さんは今年亡くなられたそうだ。
隆景公の事績はよく知られているが、台座の銘板では簡潔に次のようにまとめられている。
小早川隆景公は天文二年(一五三三)毛利元就の三男生まれ幼にして沼田竹原両小早川家を継がれた。永禄天正年間三原湾に海城を築き内海の統治と地方産業の興隆に尽されその治績は筑前福岡と山陽道三原が中心であった。天正十年以来豊臣秀吉公の帷幄に侍り隆景公が慶長二年(一五九七)病歿するやその訃報に接した太閤は「天は何ぞ我が隆景を奪うや」と大いに慨歎された。ここに隆景公を三原の開祖として仰ぎその遺徳を永く顕彰するためこの銅像を建てる。
昭和四十一年三月 三原市
「秀吉公の帷幄に侍り」とは難しい表現だが、おそば近くに仕えた、という意味であり、五大老の一人として重用された。秀吉に先立って亡くなり、関ケ原の戦いに直面したのは養子の秀秋だった。隆景が存命であれば、また違った展開があったかもしれない。
隆景は常に冷静沈着な行動のできる優れた武将であった。幕末に書かれた岡谷繁実『名将言行録』は、史料としての信頼性は低いが、江戸時代に流布していた逸話が多く記されている。例えば…。
隆景、或時急速のことありて、右筆に物を書かするに、急用のことなり、静に書すべしと言はれしとぞ。
「急ぎだから、落ち着け」とは一見矛盾しているようだが、緊急なのは重大な内容だからであり、重大であればこそ正確かつ端的に記さねばならない。現代ビジネスにも役立つ珠玉の名言といえよう。
すぐ近くにお城があるので行ってみよう。
三原市館町一丁目に国指定史跡の「三原城跡」がある。史跡としての正確な名称は「小早川氏城跡(高山城跡,新高山城跡,三原城跡)」という。写真は天守台である。
三原城は隆景公も絶句する素晴らしい環境にあり、天守には新幹線で乗り付けることができる。入口が三原駅構内にあるのだ。この巨大な天守台について、説明板では次のように解説されている。
天主台石垣(館町)
日本一の規模を持つこの天主台は広島城の天守閣なら六つも入るという広さを持つ。三原城が造られた一五六七年より約十年後に信長によって安土城が造られ、初めて天主台に天守閣が聳えるようになり、以後全国に流行しました。然しこの三原城築城の時はまだ天守閣を造る思想のない時代だったと考えられます。山城から平城に移行する時代のごく初期の城築です。
この裾を引いた扇の勾配の美しい姿は群を抜きます。しかも余人は真似るべきではないと言われた「アブリ積み」という特殊の工法は、古式の石積形式を四百年経た今日まで立派に伝えております。
一七〇七年の大地震では、城内を役夫二万五千人を動員して修理した 。しかし破損箇所は…「元のごとく成りがたかりしを、伝右衛門(竹原市下市)をして築かしめられけるに、 遂に築きおさめければ…」とあるが、これは東北陵面のことと推測します。
確かに大きな天守台だ。東西55m、南北50mの規模を誇るという。天守は建造されなかったらしい。それでも、さすがに日本一だ。ところが近年の発掘調査により、日本一の天守台は駿府城だと判明した。西辺約68m、北辺約61mである。さすがは家康、勝てる相手ではない。
「アブリ積み」というのは、石の控えの寸法よりも面の寸法を大きくした積み方である。表面的には石が積まれているように見えるが不安定となるため、「余人は真似るべきではない」ということらしい。
三原城は近世城下町では主役だったはずだが、近代都市に侵食され、今や石垣で往時を偲ぶのみである。移築された建造物がどこかにあるのではと探すと、小さな門にたどり着いた。
三原市西町二丁目にある「順勝寺山門」は市の重要文化財(建造物)である。
見た目にはそれほど珍しいとは思えないが、とても貴重な遺構だという。説明板を読んでみよう。
三原市重要文化財 順勝寺山門
昭和五十四年四月二十一日指定
所在 三原市西町
三原城内にあった御作事奉行所門を、明治十年(一八七七)に順勝寺に移したものである。
築城当時の建築物が、当時の状況を保存して現存するものは非常に少なく貴重な遺構で、永禄から天正年間(一五五八~九二)の作と推定される。
構造形式
四脚門、切妻造り、本瓦葺き、
梁間二・三七メートル、桁行六・○メートル、
軒高三・二メートル
三原市教育委員会
作事奉行は今の三原市では都市部建築課に相当する役所だろう。建築担当だっただけに建造物の管理にはぬかりがなく、役所の顔だった門は今日まで維持されている。来た道を引き返して、天守台のある館町に戻ろう。
各地で郷土の偉人を大河ドラマ化しようという機運が盛り上がっている。隆景公の後半生なら秀吉とのからみが多いので視聴率が稼げるだろう。これまでも何度か脇役として登場し、毛利家の良心を体現していた。『軍師官兵衛』では鶴見辰吾が好演した。
三原城は永禄十年(1567)の築城で、平成29年(2017)は築城450年で盛り上がったようだ。写真は三原の銘酒「酔心」の記念ボトルである。やたらに濃いキャラがいるが、三原市公式マスコットキャラクターで、名前を「やっさだるマン」という。酒の強そうなこのおっさんは、やっさ踊りが得意ならしい。
築城450年を記念しているのに、お城も隆景公も登場しない。こんなんでいいのかと思って調べると、やっさ踊りは、隆景公が三原城を築城したとき、町の人々が完成を祝って踊ったのが始まりだという。だるまは、江戸末期に下級武士が、上方から伝わった江戸だるまを生活の足しにと作ったのが始まりだという。
なるほど、城下町三原の伝統がすべて、ここに凝縮されているのだ。酔った勢いでやっさ踊りを踊ってみるか。1ちょん、2ちょん、123ちょん…おっとっと。