逆柱(さかばしら)というのは建築の禁忌で、本来の上下さかさまに柱を立てることである。家運が傾くとかロクなことが起きないそうだが、日光東照宮の陽明門は逆柱があることで知られている。作られているものは壊れないが、作られたものは壊れるだけ。完全なるものは実は脆いのである。そのため陽明門には敢えて逆柱を用いて、完璧な建物にしなかったのだという。
ところが、ある少年は持っていた杖を地面に逆さに突き立て、新たな杖を手に旅立って行った。すると、奇跡が起きたのである。そんな話をお届けしよう。
岡山県久米郡久米南町里方(さとがた)に「誕生寺のいちょう」がある。町指定重要文化財(天然記念物)である。
イチョウの木は四季それぞれに姿を変え、その移ろいゆくさまに魅力があるが、とりわけ秋は葉が輝くように色づく。この時季の陽射しは暖色がより強まっているのだろうか、観る者の心まで温かくなる配色である。
このイチョウの美しさが奇跡だといっても過言ではないが、美しいイチョウなら境内に何本もある。この木ならではの奇跡が説明板に紹介されているので読んでみよう。
公孫樹(いちょう)
久安三年(一一四七)十五歳の勢至丸(法然上人)は、比叡山に旅立たれる際、高円菩提寺より杖とされた銀杏の枝をこの地にさされたところ生着繁茂し、根が上に伸び「逆木(さかき)の公孫樹」ともいわれる。
(岡山県指定天然記念物)
県の天然記念物だというが、県のリストにはなく町のリストにはある。単なる誤りか何か事情があるのか、それとも奇跡なのか。その奇跡だとしても「逆さに生えるわけねーだろ」とツッコんではいけない。イチョウの幹を見ると、根元から上にいくにつれ太くなる。枝を根に見立てると、逆さに生えているように見えるわけだ。
法然上人と菩提寺のイチョウについては「法然上人はイチョウ育ての名人」にまとめている。それまで修行していた菩提寺から杖としてきたイチョウの枝を、この地にさしたのが誕生寺のイチョウだというのだ。ただし菩提寺のイチョウは雄株だが、誕生寺は雌株でギンナンができる。この日もたくさん落ちているギンナンが参詣の方に拾われていた。茶碗蒸しになるのかおこわになるのか。
いま15歳の受験生が大志を抱いて高校入試に挑んでいる。「勢至丸(せいしまる)」少年15歳もまた大志を抱き、当時の学問の最高峰、比叡山に向かったのである。
凛々しい姿の少年が前に向かって歩き出す。うしろの仏さまも「頑張ってこいよ」と応援してくれている。ただし当時、イチョウの木は色づいていない。出立は久安三年(1147)二月十二日であった。像の制作は山田良定(りょうじょう)、浄土宗の僧侶という異色の彫刻家である。
少年の旅立ちを祈るような思いで見送る女性がいた。
勢至丸少年の母「秦氏(はたうじ)さま」のお姿である。祈っているのは道中安全、学業成就、そして何より延命息災であろう。像の制作は橋本堅太郎、文化功労者の彫刻家である。像は誕生寺境内にあるが、実際に親子が分かれたのは別の場所だ。
久米郡美咲町西幸(さいこう)に「法然上人母秦氏君お別れ之地 都原」と刻まれた石碑がある。燈籠は「仰叡の灯(ぎょうえいのひ)」と呼ばれている。
誕生寺から津山往来に出て北へしばらく進むと、広々と見通しの良い場所に出る。ここは旭川水系と吉井川水系の分水嶺である。この先は下り坂になるから、旅立つ姿を追うことができなくなる。上京する人の見送り場所として、よく利用されてきたのだろう。勢至丸少年もここで母と別れ、津山に出て出雲街道を東に向かった。
石碑のそばにある説明板には、次のように記されている。
法然上人が勢至丸とよばれた十五才の時父の遺言に従って仏道修業すべく都に旅立ったのである。
その時見送りに来た母と永久の訣別となったのがこの地である。最愛の一子勢至丸との別れは母にとって堪えられない悲しいものであった。その後も母は毎日この地に来て遠い都、比叡山で修業しているわが勢至丸に想いを、めぐらし灯明をつけわが子の無事を祈ったとつたえられている。
それ以来、この訣別の地を誰となく「都原」と呼ぶようになった。この母の限りない慈愛の情があってこそ万民救済の道をひらかれた法然上人が生まれたと言えるであろう。
ここに昭和五十七年法然上人お誕生八五〇年を記念して有志にはかりこの都原の地に碑を建立する。
昭和五十七年吉日 仰叡の灯史蹟顕彰会
別れのつらさと不安を、母は歌に詠んだ。歌碑が左端に建てられている。説明板から歌と現代語訳を引用しよう。
かたみとて はかなき親の とどめして この別れさえ またいかにせん
(討ち死にした夫が忘れ形見として、私に残してくれた一人息子と、別れなければならないとは、どうしたらよいのだろう)
都原は「母と永久の訣別となった」とのことだが、母は心労からだろうか、この年の十一月十二日に37歳の若さで亡くなってしまう。9歳の時に父を失っていた勢至丸少年は、孤独ながらも果敢な求道の旅を始めたのである。
18歳で上京して大学生活に入る若者はたくさんいる。いまは勢至丸の時代に比べて格段に安全な旅や生活ができるとはいえ、我が子の無事を祈る母の思いは、今もむかしも変わらないだろう。禁忌なのに敢えて逆柱を用いるのも、我が子に見えないのに毎日灯明をつけるのも、祈りの形の一つなのである。