備後発祥のハローズは、24時間営業の大規模なスーパーマーケットを中四国に展開している。そのライバル、讃岐発祥のマルナカは、巨大スーパーイオンの系列化に入ることで販売力を強化するとともに、「ナカマカナ」のPRソングでも消費者の気持ちをつかんでいる。両社は各地で激戦を繰り広げているが、草刈り場となっているのが岡山県。地元備前の老舗天満屋ストアはセブン&アイと組んで迎え撃ち、全面対決の構えを崩すことはない。スーパー戦国を生き延びるのは、どの店なのか?
このような状況は今に始まったことではない。時は安土桃山、天正年間、安芸の毛利氏と備前の宇喜多氏は美作の地で激突した。
津山市荒神山に市指定史跡の「荒神山城跡」がある。本丸からは県道449号押淵皿線が通過する種地域を見下ろすことができる。この道は古くからの主要道で後醍醐天皇も通過している。登城路では石垣も見ることができる。
天正五年(1577)に始まった中国征伐で、毛利勢と織田勢の対立が激化し事態は流動化する。翌六年、別所氏が毛利方に寝返り三木合戦が始まる。同七年、毛利方であった宇喜多氏は美作を舞台に毛利氏と対立するようになる。荒神山城は宇喜多氏の美作進出の拠点であった。この年の三月、宇喜多方の荒神山城と毛利方の神楽尾城との間で攻防戦が繰り広げられた。『美作古城記』を読んでみよう。
天正七年三月上旬既に評議一決して尚清以下家老大谷七次郎三浦宮川大江を始其勢二百人計夜中に当城を打立て荒神山へと遣発せり。
天正七年(1579)3月、神楽尾城を守る毛利の武将大蔵尚清は、総勢200人で毛利方の荒神山城に夜討ちをかけた。これに対し、荒神山城を守る宇喜多方の花房職秀(はなぶさもとひで)は、スパイの働きで大蔵勢の動きを察知していた。この続きは再び『美作古城記』で読むことにしよう。
大蔵方には斯共不知子の刻計りに荒神山の城をヒシヒシと取囲み鯨波をドッとぞ揚たりける。花房方には待設たる所なれば同く鯨波を合すや否や苔口難波が勢ハラハラと打て出をめきさけんで切立る。城中よりは花房職秀士卒をはげまし打出て前後より取巻て戦ふたり。味方等十分敵に気を呑れたる上暗さはくらし案内は不知大に切立られ右往左往に散乱す。敵勢等は面白きことに思ひてそこ此所と駆回り味方討ること数の限りぞ無りける。尚清怒て備を立直さんと下知すれど崩れ立たる兵なれば耳にも入ず敗走せり。
神楽尾城の大蔵勢はそうとも知らず、荒神山城をぎっしりと取り囲んで鬨(とき)の声をドッとあげた。待ち受けていた荒神山城の花房勢は同じく鬨の声をあげると同時に、苔口や難波の手勢が次々と打ち出て、大声を出しながら切りまくった。城中からは大将の花房職秀が兵を鼓舞しながら押し出し、大蔵勢を取り囲んで戦った。大蔵勢は花房勢に気持ちで圧倒されたうえに、暗い中で切りつけられたので、右往左往して逃げまくった。花房勢は面白いようにそこかしこを駆け回って大蔵勢を討った。大蔵尚清は怒って守備態勢を立て直そうと命令したが、もはや聞く兵もなく敗走した。
戦闘は続いて神楽尾城で繰り広げられるのだが、これについては以前の記事「眺めの美しすぎる山城」でレポートしている。こうして花房職秀は宇喜多氏の美作進出に大いに貢献したのだが、やがて若き主君秀家とぶつかり家中から離れることとなる。
このため職秀(この頃には職之=もとゆき)は、関ヶ原合戦で徳川方に味方し、結果的に戦国サバイバーとなった。戦後は備中高松を中心とした所領を与えられ、高松知行所を置いて統治した。子孫は明治に至るまで旗本として幕府に仕え、第8代の職朝(もととも)は駿府城代を務めている。精緻に組み上げられた石垣が美しい駿府城。この城を任されるチャンスを得たのも、戦い上手で情勢判断の的確な職秀(職之)が戦国を生き延びたからであった。