曜変天目を藤田美術館で見た時の衝撃は忘れられない。吸い込まれそうな小宇宙がそこにあった。多くの貴人を魅了し再現不可能ともいうあの瑠璃色はどこから来たのか。そもそも、12~13世紀南宋の作品がなぜここにあるのか。
世界に三椀のみという曜変天目の一つ水戸天目は、はじめ徳川家康が所蔵していたという。水戸徳川家頼房に譲られた後は代々を経て、大正七年の売立で落札したのが藤田財閥二代目の藤田平太郎である。本日はその父親、藤田伝三郎ゆかりの地からレポートする。
岡山市南区あけぼの町のあけぼの公園に「藤田伝三郎翁顕彰之碑」がある。
岡山市南区には岡山市立藤田中学校があり、その学区は昭和50年まで「児島郡藤田村」だった。またかつての岡山臨港鉄道という私鉄に、昭和53年まで「岡南藤田駅」があった。藤田村は岡山市に合併されるが「藤田」は地名として定着している。岡南藤田駅はその藤田地区とはまったく別の場所にあり、混乱を避けるためか「並木町駅」と地元の地名に改称された。
いずれにしろ、これらの「藤田」はすべて藤田伝三郎にちなんだ名称である。本日紹介する顕彰碑は藤田地区ではなく、岡南藤田駅があった岡南地区にある。藤田地区は広々した二毛作地帯で、今の季節はビール麦が成長している。岡南地区は工業地帯と住宅地になっており、店舗も多く住みやすい街である。
このような広大な地域で藤田伝三郎が顕彰されているのは、なぜだろうか。碑文を読んでみよう。
藤田伝三郎翁は天保十二年長州萩に生れ気宇闊達夙に公共事業に志し明治二十二年児島湾干拓の大事業を興し苦心経営子孫三代に亘り遂に四千町歩の国土を造成せり。岡山市浦安本町外十ヶ町一千二百町歩の地は其の一部にして昭和二十五年竣工す。西部は本市最大の穀倉地帯として米麦年産一万数千石に及ぶ。東部は工業地帯として岡山港の築造臨港鉄道の敷設幾多工場の設置更に施工中の児島湾淡水湖化締切堰堤は岡山玉野を結ぶ道路並に鉄道の実現を確実ならしむる等臨港工業都市開発逐年進捗し地方産業発展上本地域の使命益々増大しつつあり。翁逝いて既に四十年今や国民は狭小なる国土に在りて殖産興業に渾身の努力を要するのとき翁の偉業を景仰し感恩報謝の念愈々切なるものあり茲に同志相謀り碑を建て以て翁の遺徳を無窮に伝へんとす。
昭和二十七年五月
岡山市長横山昊太撰 桂南大原専次郎書
大原桂南は岡山県南では有名な書家で、桂南が揮毫した忠魂碑は各地に残っている。碑文中の西部の穀倉地帯が藤田地区で、東部の工業地帯が岡南地区に当たる。これらの広大な地域は、藤田伝三郎の設立した藤田組が手掛けた児島湾干拓によって生まれた土地である。干拓によってできたオランダでは、「世界は神が造りたもうたが、オランダはオランダ人が造った」というそうだが、藤田地区と岡南地区は藤田組が造ったのだ。伝三郎は地域の恩人に他ならない。
この碑文が貴重な時代の証言者となっているのは、「施工中の児島湾淡水湖化締切堰堤は岡山玉野を結ぶ道路並に鉄道の実現を確実ならしむる」の部分だろう。昭和34年に完成する児島湾締切堤防は、碑の建てられた昭和27年当時は施工中であり、堤防上に道路と鉄道を通して岡山と玉野を結ぶという壮大な計画が練られていたというのだ。
このうち道路は昭和36年から有料道路として供用が開始され、昭和49年に無料開放された。今では岡山と玉野を結ぶ大動脈として機能している。いっぽう鉄道は「確実」になることはなく、今後もほほえましい夢のエピソードとして語られるに過ぎない。
この碑が建てられる直前の昭和27年4月14日、次のような鉄道敷設計画が運輸大臣に申請されたのである。『岡山臨港鐡道50年史』より
線路は臨港福田駅を起点に南下し建設中の淡水湖締切堤搪の上を通り、現在の県道45号線(岡山・玉野線)に沿って玉野市の国鉄宇野線八浜駅付近に接続、そのまま終点の国鉄宇野駅に至るというもの。新規の中間駅は9ヵ所、臨港福田駅から国鉄宇野駅まで全長約19km、予定所要時間は40分という計画であった。
社史の図に示されている中間駅は、築港駅、郡駅、見石駅、八浜駅、波知駅、山田駅、大藪駅、見能駅、田井駅である。モータリゼーション未発達の昭和27年当時において、岡山臨港鉄道の分岐延伸は現実的な将来像だったのであろう。実現されていれば今、エコな都市交通として注目されていたかもしれない。
この計画は昭和41年12月7日に申請取り下げによって消滅した。道路の整備とともに自家用車を持つ人が多くなり、鉄道新設の必要性はなくなっていた。岡山玉野間を結ぶバスの便数は今も多く、藤田伝三郎ゆかりの藤田地区と岡南地区の住民がさかんに利用している。
かつて海だった場所が陸化され、そこで人が生活を営んでいる。農業の恩恵を受ける藤田地区は地名で伝三郎を顕彰し、工業で恩恵を受けるようになった岡南地区は碑を建てて伝三郎を顕彰した。さすがに鉄道の恩恵までは受けるに至らなかったが、現在の岡南地区発展の原点は伝三郎の干拓事業にあったことを碑文が伝えている。