山城に登りながらこう考えた。ゆっくり歩けば時間がかかる。杖がなければへとへとだ。よそ見をしてると踏み外す。とかくに山城の坂は登りにくい。だからこそ守りに適しているのだろう。地形が険しく守りに適した場所を「要害」と呼ぶ。山陰には「要害」と呼ばれる山城がいくつもあるので、その一つをレポートする。
鳥取県日野郡日野町金持(かもち)に「大要害」がある。
名称ほどには険しさが感じられないが、頂上からの眺望は良いだろう。麓を通過する国道181号はかつての出雲街道である。
街道沿いの丘に「金持大和守景藤公の墓」がある。
金持景藤は地元の武士。出雲街道を下った後醍醐天皇に寄り添ったという忠臣である。金持党発祥の地顕彰実行委員会が景藤公生誕七百年を記念し平成21年に建てた副碑がある。説明文を読んでみよう。
景藤公は元弘元年足利幕府の倒幕に失敗し隠岐島へ流刑となった後醍醐天皇を護送途中の四十曲峠まで密かにお迎えし御心を安んじ奉った。翌二年天皇隠岐島を脱出船上山に身を寄せられるや金持妙見社の戸張を旗印とし金持党三百余騎を引き連れ馳せ参じ苦戦中の名和長年公を助け朝山六郎とともに幕府方佐々木清亨の大軍を殲滅した。天皇京都へ還幸の折りには天皇の左に錦の御旗を掲げ従った。天皇の親任厚く大和守に任ぜられ名を俊宇と改め軍攻にあたり、延元元年足利尊氏天皇に叛くや金持党を率いて新田義貞恒良尊良両親王とともに各地に転戦奮闘し北陸金ヶ崎では天皇を守り籠城するなど終始天皇に誠を盡した。この塔は公の家臣が鎧を持ち帰り当地堂ヶ平ルの丘に埋葬し供養した宝篋印塔である。その後片目の白蛇が公を守るかのようにたむろして居たと伝えられている。
冒頭の「足利幕府」は北条幕府か鎌倉幕府だろう。倒幕に続く南北朝の争乱においては、宮方として重要な役割を果たしているようだ。『太平記』で関連部分を読んでみよう。巻第十一「諸将被進早馬於船上事」で描かれた一世一代の晴れ姿である。時は元弘三年(1333)、倒幕を果たした後醍醐天皇が船上山から京へ帰ってきた。
塩冶判官高貞は千余騎にて一日先立て、前陣を仕る。又朝山太郎は、一日路(にちじ)引殿(ひきおくれ)て、五百余騎にて後陣に打けり。金持大和守、錦の御旗を差(さし)て左に候(こう)し、伯耆守長年は、帯剣の役にて右に副ふ。雨師(うし)道を清め、風伯(ふうはく)塵を払ふ。紫微北辰(しびほくしん)の拱陣(きょうじん)も、斯(かく)やと覚て厳重也。されば、去年の春隠岐国へ被移(うつされ)させ給ひし時、そゞろに宸襟を被悩(なやまされ)て、御泪(おんなみだ)の故(もと)と成し山雲海月の色、今は龍顔(りょうがん)を令悦(よろこばしむる)端と成て、松吹(まつふく)風も自(おのずから)ら万歳を呼ぶかと被奇(あやしまれ)、塩焼(しおやく)浦の煙まで、にぎはふ民の竈(かまど)と成る。
出雲守護の塩冶高貞は千騎余りで一日先に先陣を務め、同じく出雲の朝山太郎は五百騎余りで一日遅れて後陣を務めた。金持景藤は錦の御旗を掲げて帝の御輿の左側に控え、名和長年は帯剣して右側で護衛した。雨の神は道を洗い清め、風の神は塵を吹き飛ばした。天帝の宮殿の厳かさもこのような感じだろうか。思えば昨春の隠岐配流で帝を悩ませ涙するもととなった美しい風景は今、帝を喜ばせている。松風の音は万歳を唱えるようであり、塩焼きの煙までも豊かに暮らす民のかまどに見えるのである。
新たな世の始まりに立ち会った金持景藤の気分も高揚していたことだろう。「万歳」とは裏腹に新政は数年で瓦解するのだが、御旗を持つ景藤には何もかもが美しく見えたに違いない。それは招致決定の際に、オリンピックが延期されるなど夢にも思わなかったのと同じだ。大正十五年発行の『日野郡史』は金持景藤を次のように紹介している。
大平記船上山の段に、金持党三百人あり。これぞ我日野郡、今の根雨町なる金持(カモチ)の豪族金持景藤が麾下なる。名和長年公と相並んで供奉し奉りしを見ても、如何に御信任の厚かりしかを窺ふに足らん。惜しむべし其終るところを知らず。されども大平記によれば、金ヶ崎の段にも金持党の参加奮戦せるものあれば、思ふに新田氏に属して、北国に下り、そこにて戦死したるものならんか。
今金持部落に、四十曲の嶮坂を扼して、大要害小要害といふ城趾あり。その麓に塚あり。大宝塔なり。塚の頂なる大榎は周囲凡三囲、古色蒼然たり蓋し金持党に関するものならん。
大要害と小要害は出雲街道を挟んで向き合う位置にある。南東に向かう上り坂は、街道最大の難所である四十曲峠に続いている。陰陽の連絡を掌握するのに格好の場所と言えよう。大要害に登ってみることにしよう。
国道から急斜面を木の枝に取りつきながら少しずつ進む。本当に城跡なのか疑問を感じつつ登ると、山城の特徴である堀切と削平地があった。
確かに要害であった。攻める気にはとてもなりそうにないが、それは当然のことであって、街道から登りやすい山が要害と呼ばれるわけがない。要害に登りながらこう考えた。帝のために働けば名を立てられる。情勢を見極めないと流される。政権内部は窮屈だ。とかくに建武の新政はやりにくい。