最近感動したのは人の優しさではなく、地理院地図の傾斜量図である。地形の起伏が手に取るように分かるのだ。先日訪れた古墳と山城で確かめてみると、前方後円という特徴的な墳形や山城の縄張、特に深い堀切が一目瞭然、尾根筋を見事に遮断しているのが確認できる。
津山市里公文に「平福城跡」がある。「平福寺城」ともいう。
久米地区の山城と言えば岩屋城で、これに関連する城跡も多いが、平福城はそれらとは別系統らしく、それほど高所にあるわけではない。城主は誰なのか、『作陽誌』西作誌中巻「久米郡北分山川部」倭文庄の項に、次のような記述がある。
円宗寺山
在里公文村樹林蓊鬱往時毛利左近亮者搆此山及平福営(在同村)与苫西郡目崎城主相争左近遂敗死今阡陌之間有仮屋畑戦幕等名
円宗寺城と平福城の毛利左近亮が、鏡野町の目崎城主と争って敗死したというのだ。この時、平福城から投げたという石を以前にレポートしたことがある。毛利左近亮については城跡の前にある高津神社の棟札に「毛利左近太夫大江元尊」と記されているから、本姓大江である毛利元就の一族のように思える。子孫は江戸期を通じて高津神社の神職を務めているので、中国国分以降に宗家と行動を共にしていない。安芸毛利氏とは別系統の毛利だったのだろうか。
平福城の南北二つの曲輪群は大きな堀切によって分けられている。この堀切が地理院地図の傾斜量図で確認できるのだ。
北側の主郭は土塁で囲まれており、西側斜面には畝状竪堀が見られる。小規模ながらも技巧的な造りをしており見応えがある。登城口まで車で行くことができ、山登りもしなくてよい。散策には最高の環境なのだが、それが逆にこの城の弱点だったのかもしれない。岩屋城攻防戦に登場しないのも、そういう理由だったのだろうか。
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