近世儒学を開いた巨人「藤原惺窩」の話をしよう。近世儒学といえば朱子学、朱子学といえば身分制社会を理論づけた…とイメージが芳しくない。それだから、藤原惺窩もガチガチの理論家で興味深い話など皆無だろう、と思っていた。ところが調べてみれば、さすがに思想界の巨人、考えることのスケールが尋常ではなかった。
三木市細川町桃津に「史跡藤原惺窩誕生地」と刻まれた石碑がある。大正十二年の建立である。
揮毫は「従二位菅原在正謹書」とあるから、菅原氏の嫡流唐橋在正(からはしありさだ)である。子爵で貴族院議員であった。藤原氏と菅原氏の因縁を思い起こすと、感慨深い組み合わせである。
右隣に「藤原惺窩先生御像」がある。藤原氏ならば京都で生まれるはずだが、なぜ播磨の地出身なのか。台座に刻まれた説明文を読んでみよう。
藤原惺窩先生は永禄四年(一五六一年)参議為純卿の第三子としてこの地に生まれた。七歳の頃より龍野景雲寺に出でて修行中、別所長治の急襲を受け、父は討ち死に、生家廃絶の悲運に遭遇した。のち、京都相国寺に上り、学ぶところ広く深く研鑽を積み、ついに儒者となる。朝鮮の儒者姜沆との出会いで多くを学んだ。徳川家康の仕官のすすめも、学問の自由を守って固辞し、清貧に甘んじ、学究と子弟の養成に励み、儒学を一般大衆にわかり易く広めた。こうして近世朱子学の開祖と仰がれ、我国道徳と思想の形成に大きく寄与した。
細川町では、第十五回藤原惺窩祭を迎えるにあたり、先生の深衣道服姿の銅像を建立して遺徳を偲び、郷土のシンボルとして顕彰すると共に、青少年の皆さんが先生を模範として一層学業に精励し心豊かな社会人になることを念願します。
平成二年十二月二日 藤原惺窩先生奉讃会建立
「参議為純卿」とは冷泉為純で、下冷泉家の公卿である。ここ細川荘は藤原俊成以来の所領であり、応仁の乱により下冷泉家が下向していたのである。ただし、為純はお公家さんとしてのほほんと生きたわけでなく、秀吉の中国攻めに協力したことから別所氏の攻撃を受けることとなった。こうした過酷な環境も惺窩の思想形成に影響を与えているに違いない。
惺窩はどのような考えの持ち主なのか。ビジネスに携わる人々に今も大切にされている訓戒に「舟中規約」がある。これは京の豪商角倉素庵(すみのくらそあん)が儒学の師である藤原惺窩に書いてもらったと伝えられる。第1条と第2条を読んでみよう。
凡回易之事者、通有無、而以利人己也、非損人而益己矣、共利者雖小還大也、不共利者雖大還小也、所謂利者義之嘉会也、故曰、貪賈五之、廉賈三之、思焉
およそ貿易とは、持てる国と持たざる国による財貨の取引を通して、双方の利益を生むものである。他国を損させて自国が儲かればよいのではない。双方の利益は少ないが得ることは多い。利益を共にしなければ、儲けがいくら多くても、得ることは少ない。いわゆる「利」は「義」と一つである。だから言うではないか。貪欲な商人は五つ欲しがるところを、清廉な商人は三つで満足すると。よくよく考えよ。
異域之於我国風俗言語雖異、其天賦之理、未嘗不同、忘其同、怪其異莫少欺詐慢罵、彼且雖不知之我豈不知之哉、信及豚魚機見海鷗、惟天不容偽、欽不可辱我国俗、若見他仁人君子、則如父師敬之、以問其国之禁諱、而従其国之風教
外国は我が国とは風俗言語が異なるといえども、天賦の道理が同じでないわけがない。これを忘れ、異なるからといって騙したり嘲ったりすることが、いささかもあってはならない。先方が道理を知らないとしても、我が国が知らずにいてよいものだろうか。信頼はイルカにも通じ、たくらみはカモメでも察するのである。思うに天は人の偽りを許すことはないだろう。相手を敬い我が国の国風を辱めてはならない。もし他国の徳ある人に出会ったならば、父や師のように尊敬し、その国のしきたりを学び、その国の風習に従うようにせよ。
トランプ大統領、習主席、菅首相、文大統領、貿易問題で対立する米中、日韓の首脳は、イルカやカモメ以上の立派な方だから、よくご存じとは思うが、今一度「舟中規約」をお読みいただけたら幸いである。肝要なのは相手に対するリスペクトだろう。
中国や朝鮮をリスペクト、いや、むしろ彼の国に憧憬を抱いていた惺窩は、親しい朝鮮の儒者姜沆(カンハン)に次のように語ったという。
『看羊録』(朴鐘鳴訳注、東洋文庫440)より
舜首座が、かつて次のようなことを言った。
「日本の民衆の憔悴が、今ほどひどい時代はいまだありませんでした。朝鮮がもし、唐兵と共に〔日本を〕吊民伐罪しようとするならば、まず降〔伏した〕倭と通訳にかな書きの布告文を掲げさせ、民衆を水火〔の苦しみ〕から救おうとしているのだという意志を詳しく知らしめ、軍隊が通過する地域にいささかの被害を与えなければ、白河の関まででも充分行くことができましょう。倭人が朝鮮の人や物を殺掠したように、もし〔朝鮮が〕ここ〔日本〕で同じ行為をするならば、対馬ですらも通過できますまい」
こんなことをナショナリストの国学者が聞いたら烈火のごとく怒るに違いない。しかし、それほどまでに我が国は朝鮮において人道に反する戦いを行い、そのことでまた日本の民衆も苦しんでいたということなのだろう。
安定した近世社会を支えた儒学の開祖は、支配者にとって都合のよい御用学者ではなかった。平和を何よりも愛し、相手の立場に立って物事を考え、非道なことは支配者であっても許さない気骨のある人物のように思える。昨年は没後400年で、地元でも再評価の機運が高まった。けだし、リスペクトに値する先人である。