ピラミッド、幻の大陸、そしてストーンサークル。昭和50年代に古代ミステリーとして大人気だった。このブログでも、かつての超古代史ブームを回顧する記事「超古代史『日本ピラミッド』」で紹介したことがある。解けない謎はすべて宇宙人やムー大陸のせいにしてしまうような勢いがあり、遮光器土偶宇宙人説とかモアイムー大陸人説などが面白おかしく語られたものだ。
現在はミステリーサークルが単なる迷惑行為だと判明しているが、ストーンサークルは正真正銘の古代遺跡である。イギリスのストーンヘンジが有名だが、日本にもある!と人気だったのがコレだ。
影のあるスケッチが怪しげに見え、配色までそれらしい雰囲気を醸し出している。おそらくこれは偏見だ。入場料75円の収蔵庫には、出土品が最新の知見に基づいて展示されていた。日時計のような組石は子どもの頃に見た雑誌か本に紹介されており、是非とも行きたいと車を走らせた。平成元年のことである。
現在は収蔵庫ではなく、ガイダンス施設として大湯ストーンサークル館が整備されている。そこでどのような説明がなされているのか知らないが、三十数年前に見た説明板なら再現できる。
特別史跡
大湯環状列石
昭和三十一年三月三十一日指定
所在地 鹿角市十和田大湯字野中堂、字万座
管理団体 鹿角市
大湯環状列石は、野中堂、万座の二つの環状列石の総称で、約四千年前の縄文時代後期の遺跡である。
昭和六年、耕地整理中に発見されたこの遺跡は、数度の調査を経て、昭和二十六、ニ十七年の国営調査によって、その全容が明らかにされた。
二つの環状列石は、径または辺の長さが一~ニメートルの組石遺構が、内帯・外帯のニ重の環状に配置され、内・外帯間の特殊な位置には「日時計状組石」一基が構築されている。環状列石の規模は、野中堂の外帯径が四ニメートル、万座は四六メートル。石は、遺跡の北東四~六キロの安久谷(あくや)川から運んできたものと考えられている。
この遺跡については、祭祀場説、墓地説等があるが、近年の周辺遺跡の調査で、組石遺構下から甕棺(かめかん)や副葬品が出土し、また残存脂肪分析で高等動物の埋葬を裏付ける結果が出たことから、墓地説が有力となっている。
このように規則的で、大規模な遺跡が作られた背景には、かなり大きな集団がこの周辺に住んでいたものと考えられる。環状列石の周辺からは多くの遺物が出土し、住居跡、屋外炉、貯蔵穴等が検出されていることから、環状列石を中心とする環状集落の存在が予想されている。
昭和六十二年三月
秋田県教育委員会 鹿角市教育委員会
今月26日(水)、「北海道・北東北の縄文遺跡群」について、イコモスによる評価結果が公表された。世界遺産一覧表への記載が適当とのことであり、7月末までに正式決定となる見込みだ。もっとも有名なのは三内丸山遺跡だが、17遺跡のうち行ったことのあるのは大湯環状列石だけだ。この遺跡は道をはさんで、さらに二つの遺跡に分けられる。
鹿角市十和田大湯字万座に「万座遺跡」がある。
時季がゴールデンウィークだったから、このあたりは桜が満開だった。現在は公園のように美観が整えられているが、当時は土がむき出しになっていた。そして有刺鉄線付きの金網フェンスで囲まれ厳重に保護されていた。そのフェンスに取りつけられた説明板には、次のように記されていた。
この遺跡は、昭和7年に野中堂遺跡とともに発見され、昭和26年・27年に文部省文化財保護委員会によって大規模な調査が行なわれたものである。
万座遺跡は、野中堂遺跡と同じように、天然の河原石でつくられ、菱形あるいは円形の形をした数多くの組石遺構である。この組石は、内帯・外帯と二重の大きな環状列石帯をなしており、その直径は、野中堂遺跡より大きく46mである。
この遺跡は、今から約4.000年前のものといわれ縄文時代後期の土器・石器・土偶等を数多く含んでいる。
このような環状列石が何の目的でつくられたのかは考古学者のあいだでも、色々な説があり、まだ定説がない。
いずれにしてもこのような壮大な遺跡が営まれた背景には、秩序立ったかなり大きな集団があったのではないかと想像されるし、またわが国における原始社会解明に極めて重要な遺跡であるといわれている。
私は巨大なストーンサークルだとは知らず、日時計がポツンとあるだけだろうと思っていた。ところがどうだ、この大きさにこの形。縄文人の精神世界の一端が形になって残っていると考えてよいだろう。
鹿角市十和田大湯字野中堂に「野中堂遺跡」がある。秋田県道66号十二所花輪大湯線の東側が野中堂遺跡で、西側が万座遺跡である。
収蔵庫のチケットに描かれた日時計はここにある。説明板が同じようにフェンスに取りつけられていたので、再現しておこう。
この遺跡は、昭和7年、耕地整理工事を行っていたときに発見されたものであるが、昭和26年・27年に文部省文化財保護委員会が行った大規模な発堀調査によって明らかになったものである。
野中堂遺跡は自然の河原石でできており、菱形あるいは円形の多数の組石がより集まって内側と外側との二重の大きな環状列石帯をなしている。その直径は、40mで内帯の近くに「日時計」といわれるものがある。この日時計は中央に立石を置き、四隅に東西南北と思われる標示石を配しており、もっとも形の整ったものである。
この遺跡は、今から約4.000年前のものといわれ縄文時代後期の土器・石器・土偶等を多く含んでいる。
このように自然石をもって大規模に築いた目的や、遺跡の性格についてはまだわかっていない。 ある組石の下に屈葬のできる程度の穴があったことから墳墓遺跡とする説もあるが、定説とはなっていない。
いずれにせよこの遺跡はわが国における原始社会解明の鍵をもっているといわれている。
野中堂遺跡のサークルの中心から日時計への伸びる直線は、県道の向こうにある万座遺跡の中心と日時計を通過する。さらにその直線が向かう先に、夏至の太陽が沈むのだという。太陽の恵みを最大限受けられる夏至を特別視する太陽信仰があったのだろう。南米のマチュピチュにも似たような考えがあった。
私が訪れた平成元年には定説のなかった遺跡の性格。現在はどのように考えられているのだろうか。「北海道・北東北の縄文遺跡群」公式ホームページでは「祭祀遺跡」だとされているが、鹿角市公式ホームページでは「集団墓」であるとともに「祭祀施設」であったとされている。
イギリスのストーンヘンジでも夏至のお祭りがあるという。もしかすると普遍的な太陽信仰が存在するのかもしれない。太陽によって生かされていることに感謝したのか、太陽のエネルギーを自らのパワーにしようとしたのか。今や縄文人は黙して語ることはなく、古代史のミステリーと言うほかないが、宇宙人の関与はないと断言できるだろう。