遠い将来に21世紀を振り返ると、コロナ禍は時代の画期となっていることだろう。かつて世界恐慌にどう対処するかで二つの潮流が生まれ、歴史が大きく動いたのと同じように、この未曽有の厄災への対応で国の命運は決するのかもしれない。近年注目される中国の超大国化や専制主義と民主主義との対立は、本来パンデミックとは別次元の課題だが、無関係では済まされないだろう。
さて本日は、歴史をさかのぼって5世紀について考えたい。欧州ではフン族やゲルマン民族の大移動で激動の中世が幕を開けた。中央アジアは謎の民族エフタルの強大化に対処を迫られた。中国は北に北魏、南に宋が並び立つ南北朝時代だった。我が国の倭の五王は朝鮮半島での影響力を確保するため、宋に朝貢して安東大将軍など将軍号を得ていた。その背景には鉄素材の確保という事情もあったようだ。
その五世紀、我が国では仁徳天皇陵に代表されるような巨大古墳が各地に築かれる。鉄製の農具は水田耕作の生産性を高め、鉄製の工具が大規模な土木工事を可能にした。公共事業によって列島改造が進む高度成長期だったのである。巨大古墳は生産手段を共有する共同体の象徴であり、内外に向けて権威を可視化する役割を担っていた。
赤穂市有年原に「蟻無山(ありなしやま)古墳」がある。
頂上に四等三角点「蟻無山」があり70.6mを示している。古墳探索というよりちょっとした山登り気分だ。少し三角錐に近い形のよい山で、古墳と山との境目が分からない。山全体が巨大な古墳にも思える。説明板を読んでみよう。
県指定文化財 蟻無山古墳
昭和五十年三月十八日指定
本墳は、揖保、赤穂両郡にまたがる宝台山地の西斜面で、蟻無山の山頂部に自然地形を利用して築かれている。
墳頂は松を主にした雑木が繁茂し、墳形は見定め難いが、昭和三六年に実施された地形測量によって、径約四〇m、高さ約三mの円墳と考えられる。南に造出(つくりだ)しを有し、河原石を利用した葺石と多数の埴輪を備えている。埴輪は、円筒埴輪のほか、馬・キヌガサ・盾などの形象埴輪が出土している。主体構造、理葬施設については不明であるが、立地、墳形から竪穴式石室の中期古墳と考えられる。
宝台山塊の南山裾部には横穴式石室を有する後期古墳があり、北の西野山とこれに続く中山にも中、後期古墳が多数分布する。また、この中には千種川流域でもっとも古い四世紀末の西野山第三号墳がある。これらと合わせ千種川流域の歴史研究上、貴重な文化財である。
昭和五十一年一月 兵庫県教育委員会
宝台山塊の南西端にある独立峰で見晴らしがよい。墳墓はその頂上に築かれ葺石や埴輪で飾られていたから、麓から壮観に見えたことだろう。見た目重視の権威の象徴である。葺石を探してみると…。
確かに角の取れた河原石があちらこちらにある。墳形は円墳としているものの「見定め難い」としている。ところが、その後の調査で詳しいことが判明したようだ。赤穂市教育委員会が平成30年2月に作成した新しい説明板「蟻無山古墳群」では、次のように説明されている。
蟻無山1号墳は、古墳時代中期(5世紀前半)に築かれた蟻無山古墳群のなかで最大規模の古墳で、平成22年度の測量調査の結果、全長52m、44mの円丘部に突出部と造出しが付属する「造出し付き帆立貝形古墳」であることがわかりました。
これまでに採集された遺物として、初期須恵器のほか、円筒埴輪、朝顔形埴輪や形象埴輪(船、馬、家、鳥、盾など)があり、赤穂市立有年考古館に収蔵されています。
その重要性から、昭和50年3月18日には兵庫県指定文化財(史跡・指定番号46)に指定されています。
蟻無山1号墳は、当時としては播磨最大級のもので、種類豊富な形象埴輪はヤマト政権との密接な関係をうかがわせるとともに、初期須恵器の出土から渡来人との深いかかわりも考えられています。
さすがは学問の日進月歩だ。墳形も規模も明確になった。古墳の意義も分かりやすく解説されている。5世紀前半に播磨で最先端に位置した地域だったのである。当時の有年の人々はどのような未来を夢見たのだろうか。その後の変化など思いもよらぬことだったに違いない。今の私たちが先のことなど何も分からないように。
ただ、昨年七月にポストコロナ社会兵庫会議(五百旗頭真座長)が「ポストコロナ社会に向けて」という提言をしている。オンライン化の加速、サプライチェーンの再構築、不寛容の打破など、今こそ必要な行動目標を示し、これを「人間の安全保障」と総括している。もしかすると、兵庫の人々は常に時代の最先端を走っているのかもしれない。