大東亜戦争が「自存自衞ノ爲」というのは詭弁であり、戦争の動機としては「元寇」にこそ相応しい。今年は最初の派兵から750年ということで、九州国立博物館で特集展示「モンゴル襲来の痕跡を探る」が開催されている。北条時宗の花押のある関東御教書(文永十一年)や蒙古襲来絵詞模本から、モンゴル軍船の碇、有名な「てつはう」まで、見応えのある出品であった。
壱岐市勝本町新城東触(しんじょうひがしふれ)に県指定史跡「文永の役新城古戦場」がある。訪れたのは1999年。まさにアンゴルモアの大王が蘇る年であった。アンゴルモアとはモンゴルのことだとも言われるので、この年にこの場所を訪れた意味はあるだろう。壱岐の人々にとってモンゴルは、恐怖の大王そのものであったに違いない。
壱岐の北西部に位置する勝本町には元弘ゆかりの地がたくさんある。浦海海岸などから上陸した元軍は、守護代の舘のある新城へと向かう。ここで最後の激戦が行われ、我が国の守備隊は全滅したのである。
史跡を示す標柱の向こうには「元寇千人塚」がある。奥の石碑には「元寇殉国忠魂塔」と刻まれている。私が訪れた時にも説明板はあったが、その後に設置された説明板のほうが詳細で分かりやすい。そちらを記録しておこう。
文永の役 新城古戦場
【長崎県指定史跡】昭和50年(1975年)1月7日指定
鎌倉時代の蒙古襲来(元寇)の時、壱岐島にも元軍が上陸し暴逆のかぎりをつくした、と伝える。文永十一年(西暦一二七四年)十月十四日、浦海(うろーみ)海岸に上陸した元軍は守護代の館(樋詰(ひのつめ)城、現在の新城神社)へと向う。守護代平景隆を首将とする百余騎の武者が元軍を迎え討ち、各地で戦ったが庄ノ三郎ヶ城の前の唐人原(とうじんばる)で大敗し、樋詰城に退き、翌十五日、全滅した、と言う。
文永の役での元軍との戦いは主に勝本町域内で行われた。これを裏付ける伝承地として、元軍の上陸地(浦海 馬場崎 天ヶ原)、古戦場(浦海 射矢本(いやのもと) 勝負本(しょうぶのもと) 火箭野辻(ひやのつじ) 火山(ひやま) 勝負坂(しょうぶざか) 射場原(いやんはる) 高麗橋(こーれーばし) 唐人原 対陣原(たいのはる))、城(樋詰城 庄ノ三郎ヶ城)、多くの遺体を一ヶ所に埋めた千人塚(浦海 本宮西(ほんぐうにし) 火箭野先(ひやのさき) 天ヶ原 射場原 新城)、元軍から身を隠した人穴(ひとあな)(古坊(ふるぼう) 新城)、平景隆(たいらのかげたか)の墓、姫御前(ひめごじょう)塚などがある。
数多くの伝承地の代表として、ここ新城千人塚の地を文永の役新城古戦場とし顕彰している。
平成20年3月吉日
壱岐市教育委員会
元軍が壱岐に上陸した文永十一年十月十四日は1274年11月13日となる。中上史行『壱岐の風土と歴史』の記述に沿って状況を説明しよう。時は申の刻、午後四時ごろ。二艘の軍船から四百人ばかりが上陸し、赤幟を掲げ、東の方を三度、沖の方を三度拝んだという。
守護代平景隆を首将とする百余騎の武者が迎え討ったが、敵の矢は二町ほどの射程があるが、味方の矢は一町ぐらいしか飛ばず、たちまち負傷者が出る。じりじりと押された景隆軍は、夜になって樋詰城に引き上げた。
新城東触地内の新城神社は樋詰城跡であり、「平景隆自刃之地」である。参道左手に石碑が建つ。
参道を進んで、拝殿左手から本殿に向かうと「平景隆公之墓所」がある。
平景隆は守護代で、守護少弐氏に代わって現地守備隊を率いていた。侵攻2日目の十五日、樋詰城を囲んだ元軍は早朝から激しく攻め立てる。多勢に無勢、もはやこれまでと覚悟した景隆は、郎党の宗三郎(むねさぶろう)に大宰府への注進を命じ、自刃して果てた。残った者も自害し、壱岐での組織的抵抗は終わった。
民間人には、どのような被害があったのだろうか。建治元年(1275)に日蓮上人がお書きになった「一谷(いちのさわ)入道御書」には、次のように記されている。
去(いぬる)文永十一年太歳甲戌十月に蒙古国より筑紫によせて有しに、対馬の者かためて有しに、宗総馬尉(そうのそうまのじょう)逃げければ、百姓等は男をば或(あるひ)は殺し或は生取(いけどり)にし、女をば或は取集(とりあつめ)て手をとをして船に結付(ゆひつけ)、或は生取にす。一人も助かる者なし。壹岐(いき)によせても又如是(またかくのごとし)。
対馬の様子を描いているが、壱岐も同様だったとしている。話に尾鰭が付いた可能性もある。それでも、未曽有の恐怖だったことは確かだろう。その記憶は現代の言葉にも受け継がれているかもしれない。長崎県立壱岐商業高等学校郷土社会部編『壱岐島の元寇』(1969)には、次のように記されている。
島民が残虐な殺傷をうけたことは、目にあまるものがあり男子はほとんど斬殺され、女子は手の掌に穴をあけられ綱をその穴に通して、船舷に結びつけてぶら下げられたという残虐行為は「蒙古」ということから訛って「ムゴイ」という言葉を生んだと言われている。
これも諸説あるので確かなことは分からない。岡山弁には「もんげー」という方言があり、「モンゴル、ものすげー」と驚いたことに由来し…ません。あれから750年の歳月を経て、モンゴルとの対決はすっかり相撲の話になった。大関相星対決となったこのたび九州場所では、豊昇龍を琴櫻が破り、我が方が勝利したところである。よきライバルとして末永く活躍してほしい。