才児(さいちご)という珍しい地名が長野県(木曽郡上松町小川)と岡山県(井原市西江原町)にある。長野県は道祖神信仰がさかんだ。道祖神は「さいのかみ」とも呼ばれる。お寺には稚児行列という行事がある。これらのバラバラな情報はつながるのか、つながらないのか。
井原市西江原町と野上町の境に明治池があり、その南側の西江原町地内(才児)に永祥寺がある。池と寺の間には美しい渓谷があり、「道祖渓」と呼ばれている。散策しながら考えたのは、なぜ「道祖渓」と呼ばれるのかだ。
三枚のうち上の写真は「座禅岩」である。座禅ができるくらい平らで広い。中の写真は「くぐり岩」。ちょっとしたアドベンチャー気分を味わうことができる。下の写真は渓谷東側の山上にある「天狗岩」である。この岩には明治池側から道が付いている。まずは、永祥寺側にある説明板を読んでみよう。
岡山県指定名勝
道祖渓
小田川の支流雄神川にできた渓谷で、明治池より流れ出た清流が黒い輝緑岩の台地である雄神台と雄宝台の間を深く削って永祥寺の南へ流れ出ています。
渓流には、末広の滝、稚児の滝、竜門の滝、座禅岩、八畳岩、不動岩などの奇岩怪岩の間を流れる清流に、アカガシ、ヤブツバキ、ハナイカダなどの樹木が映えて、渓谷美をかもしだしています。
永祥寺の開山実峰良秀の徳を慕って集まった童子のなかに、道祖神の化身である稚児がいたという伝説から道祖渓の名称が起きました。
指定年月日 昭和三〇年七月一九日
井原市教育委員会
実峰良秀(1318~1405)は曹洞宗の高僧で、能登の総持寺、信州の霊松寺などで活躍した。備中那須氏に招かれ、備中初の曹洞宗寺院、永祥寺を開いたという。霊松寺も永祥寺も総持寺の末寺である。総持寺でも稚児行列が行われている。能登にも道祖神信仰がある。つながるのか、つながらないのか。
明治池側にも説明板があるので読んでみよう。
名勝道祖渓
(岡山県名勝 昭和30年7月19日指定)
『永祥寺開山実峰(じっぽう)禅師の徳を慕って集まった童の中に道祖神の化身した稚児がいた』との伝説から、室町時代初期に道祖児(さいちご)という地名がこの地域にできた。その後江戸時代初期に『神竜の化身した稚児が実峰禅師に仕え修業した』との別伝説から、地名を才児(さいちご)と改めて現在に及んている。
この地域には渓流が2つあり、永祥寺東側の渓流を東滝(ひがしのたき)、当渓流をかつては西滝(にしのたき、永祥寺滝)と称していた。昭和初頭、時の県会議員槙井(まきい)瀧右衛門らが中心にこの西滝(永祥寺滝)の渓谷美を世に喧伝しようと古地名から『道祖渓』と命名し、顕彰に努め、昭和30年7月19日に県から名勝地として指定を受けた。
道祖渓は輝緑岩(きろくがん)の台地である雄神台(おかみだい)と雄宝台(ゆうほうだい)の間を深く削ってできた渓谷であり、末広滝、稚児滝、竜門滝、座禅石、八畳岩、不動岩など輝緑岩の奇岩怪石の間を縈回(えいかい)する清流に、アカガシ、ヤブツバキ、ハナイカダなどの樹木が映えて、渓谷美をかもしだしている。この渓谷は高い照葉樹、夏緑樹に囲まれた自然度の高い貴重な天然樹林である。
地名「才児」は、その昔「道祖児」であり、この古名から「道祖渓」と命名されたという。渓谷美のPRに努めた槙井瀧右衛門は西江原村出身の実業家で、備中織物同業組合長をしていたという。井原デニムの源流の一つだろう。
だが、「道祖神の化身した稚児」が今一つ腑に落ちない。明治45年4月発行の河合健三『西江原村史』には、実峰良秀上人が稚児と向き合う場面が紹介されている。
上人「明日の夜此処に龍神の本体にて現はるべし」と答へらるゝに稚児は限りなく喜び勇んで退いた。翌夜-朔日と同じ夜頃、上人の前に現はれ出でしは長け二丈に余り、口は箕を合せたる如く、眼は爛々として炬にも似たる龍であった。
稚児の正体は龍であった。明治池側説明板の「別伝説」が正しいのではないか。ただし「道祖児」から「才児」への改名については、よく分からない。『西江原村史』には「才児」の旧名として「道祖児」が出てくるが、道祖神に関する記述はない。とすると「道祖神の化身した稚児」を疑ってもよいだろう。
おそらく「道祖神の化身した稚児」という伝説は、「道祖児」という古地名からの連想だろう。であれば「道祖児」の由来が気になるが、これはよく分からない。信州や能登が関係するのか、しないのか。
「道祖渓」という名称は「道祖児」という古地名にちなんで名付けられたのであり、「道祖神の化身した稚児」という伝説に由来するものではなく、伝説そのものがないのでは…というのが私の見方である。