新幹線ができて50年になる。新幹線は東京に向けて地方の夢と希望を運んだが、地方に恩恵をもたらしたのだろうか。新幹線の駅のある自治体の4割超で人口減少が見られるのだそうだ。駅さえできれば都市は発達する。そんな非科学的な命題が信じられていた時代は終わろうとしている。
ところが、今も夢のリニアを巡って駅の誘致合戦が見られる。人とともにマネーが運ばれると信じているのだろう。リニア奈良県駅は大和郡山市、生駒市、奈良市、天理市の4市の争いだという。
そういえば、首都機能移転の話を聞かなくなって久しいが、どうなったのだろう。栃木・福島地域、岐阜・愛知地域、三重・畿央地域とやや具体的にまではなったが、オリンピック開催で東京の魅力はますます磨かれ、これに水を差す首都移転など語られなくなるだろう。行政機構が移転したところで、経済を担う企業や消費者がついていくだろうか。
その東京が影も形もなかったころ、関東に新しい都が造られようとしたという。その未完の、いや未着工の都はどこだったのだろうか。
茨城県常総市国生(こっしょう)に「下総国亭(庁)跡」がある。「平将門公史跡」とも刻まれている。遥か向こうに見えるのは霊峰筑波山である。
広い畑地の中にあって、標示がなかったらそれとは分からない。この場所の価値は常総市と常総市教育委員会の設置した説明板に教えてもらうことにしよう。この地は旧石下町だが、説明が詳しいのが特徴的だ。
この台地一帯は北総最初の開拓地で、神護景雲三年(七六九)六月縫殿頭兼下総員外介、同四年八月下総介、宝亀三年(七七二)十月上総介、同五年八月上総守として卒した豊城入彦命の裔孫桑原王の開発になるが、鬼怒川と飯沼川の水便を高度に利用できる地勢により基地として早くから栄えていた。昌泰年間(八九七~九〇一)に至り鎮守府将軍平良持公がこの地に進出して居を構え、下総開拓の府として国庁を置き、周辺の開発と農民の保護に当ったところから現在の国生の名が起ったと伝えられている。
良持公は居館を天然の要害向石下の地に構築して住まいとし、延喜二年(九〇二)三月二十五日次子豊田小次郎将門公が誕生した(一説には国生に生るとも云う)。
国庁は良持、将門両公の時代を通じ一貫してこの地に置かれていたと云われ、将門公を語る唯一つの原典記述「将門記」にも天慶二年(九三九)十一月二十九日豊田郡鎌輪の宿に還り、捕虜の常陸長官詔使を一家に住まわしたとあり、翌三年二月十四日石井の地に戦死するまでの約四十年間にわたってその機能を果たしていたことが頷ける。また、常陸介藤原維幾父子に与えた一家もこの地内であると云い、王城を建つ可しと議された地は南方の台地杉山であるとも云う。
今にして往時を偲ばせるものに古明神、太子、丸の内、番場、天神、神田、神田台、表橋、栴檀、吾妻、東山、不動、納屋等の地名があって、七曲り、大道等地形を語る名称が残り、はるけき筑波の霊峰と根岸を洗う鬼怒川の清流とともに、平安の昔千余年前の興亡を雄弁に立証している。
豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)とは、崇神天皇の皇子で東国を治めさせるために派遣されたと伝えられている。桑原王は奈良時代にこの地方の開発に努めた官吏である。さらに平良持、将門父子がこの場所に国庁を置き、本格的に開拓を行ったという。
注目したいのは「王城を建つ可しと議された地は南方の台地杉山であるとも云う」との記述だ。天慶二年(939)12月19日、上野国府で将門は新皇(しんのう)を称し、除目(じもく)に続いて王城(おうじょう)の建設や文武百官の制定について議論した。『将門記』の記述を確認しておこう。
王城を下総国の亭南に建つ可し。兼て、檥橋(うきはし)を以て、号して京の山崎と為し、相馬郡の大井津を以て、号して京の大津と為さむ。
この記述から将門が京になぞらえた都城を関東に建設しようとしたことが分かる。もっとも綿密な計画ではなく、思いつきと変わらぬ程度のものだったが。
王城は、かつて相馬偽宮と呼ばれた守谷城址(守谷市)だと考えられていたが、これは相馬氏が将門の子孫を称したことから発生した伝説である。
ふつうに考えると王城は、将門が本拠を置いた石井(いわい)営所跡(坂東市岩井)であろう。坂東市沓掛(くつかけ)には「山崎」という地名があり、喜野小路・平形小路・柏畑小路と京都の小路を偲ばせる地名も伝わっているという。京の山崎になぞらえた檥橋(うきはし)とはここだったのか。
一方、京の大津になぞらえた相馬郡大井津は、千葉県柏市大井のことだという。王城もこのあたりにあったと考える人もいるようだ。近くには「岩井」という地名もあり、そこには将門神社がある。
いずれにしろ「下総国の亭南」には間違いない。ただ、柏市、守谷市はずいぶん遠い。坂東市岩井もけっこう離れている。そうすると説明板のいう「南方の台地杉山」(常総市杉山)と考えるのが現実的だ。
実際には将門公が都城を建設しようと思っただけで、2か月後には夢の都構想となってしまう。本日紹介した下総国亭(庁)跡は都の位置を定める基準となる場所だったのである。