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太宰治(だざいおさむ)のお墓を紹介したことがある。桜桃忌の当日だっただけに、サクランボがあふれんばかりに供えられ、ファンの熱い思いに驚いたものだ。今日は彼のペンネームの話から始めたい。
本名は津島修治(つしましゅうじ)だから、「治」は自分の名前に由来すると分かる。では「太宰」はどうか。学者(太宰旋門)か友人(太宰友次郎)の名字、デカダニズムがダダイズム、津軽弁でも訛らない、などの諸説があるのだが、有力なのは九州大宰府由来説である。
事実、太宰は次のように答えている。(太宰府市『太宰府人物志』より)
太宰権帥大伴の何とかっていふ人が、酒の歌を詠んでゐたので、酒が好きだから、これがいいっていふわけで、太宰。(関千恵子さんの質問への回答)
僕のは天神様の太宰だ。(竹内俊吉さんの質問への回答)
「大伴の何とか」は大伴旅人で、正確には大宰帥(だざいのそち)である。酒を礼賛する歌が『万葉集』に収められている。「天神様」はもちろん菅原道真だ。
ということは、大宰府跡は「太宰治」誕生の地なのか。しかし、彼の関心は「ダザイ」の語感や酒とのつながりに向いており、下の写真のような美しい光景に感動したからというわけではなさそうだ。
太宰府市観世音寺四丁目に特別史跡「大宰府跡」がある。
行かれた方はご存じだろうが、駐車場からここまで来るのに、けっこう歩かねばならない。とにかく広い。向こうにビルや鉄塔が見えない。菅原道真が見たのもこの風景だったかと思わせるような歴史的景観である。まずは福岡県教育委員会の説明板で基本事項を確認していこう。
古代、西海道と呼ばれた九州一円を統轄していた大宰府は外交・貿易などの対外交渉の窓口として重要な任務を課せられていた。その機構は中央政府に準じ、地方機関としては最大規模の行政組織を有していた。
発掘調査によると、七世紀後半に掘立柱建物が建てられ、八世紀初頭に礎石を用いた朝堂院形式の建物に整備される。この建物は藤原純友の乱によって焼き打ちされたが、十世紀後半には立派に再建された。
現在見ることのできる礎石は、この再建期のもので、左上図は発掘調査の成果をもとにして復元したものである。これらの建物は、菅原道真が「都府の楼はわずかに瓦の色を看る」とうたっているように壮大なもので、当時としては中央の都の建物にも劣らぬものであった。
正殿は重層風につくられ、屋根は入母屋ないしは寄棟造りであったと思われる。
このような政庁を中心にして周囲は、数多くの役所が配置され、その規模は平城・平安の都に次ぐ「天下の一都会」であった。
大宰府が現在の地に置かれたのは7世紀後半、つまり白村江の敗戦に伴う高度国防国家建設の一環である。藤原純友の乱による焼亡の後に再建された時の礎石が残るというから、菅原道真がいたころの建物の配置とは少々異なるのだろう。
律令制の崩壊に伴い、その機能は失われていった。宋との交易がさかんになり対外的な緊張もなくなると、九州の政治的中心が内陸部にある必要はない。鎌倉幕府の鎮西探題も博多に置かれた。大宰府の終焉である。ただし、南北朝期に懐良親王の征西府が置かれ南朝の拠点となったから、律令国家再建としてのシンボルにはなったようだ。
大宰府の歴史の精華は、やはり菅原道真である。説明文に「都府の楼はわずかに瓦の色を看る」とあるように、道真が詠んだ詩は、かつての都会大宰府を彩り鮮やかに描き出している。併せて道真の境遇に思いを致しつつ、都府楼の古跡を眺めれば、栄枯盛衰とはこのことかと感傷を誘うのである。名作「不出門」を読んでみよう。
不出門
一従謫落就柴荊
萬死兢々跼蹐情
都府楼纔看瓦色
観音寺只聴鐘声
中懐好逐孤雲去
外物相逢満月迎
此地雖身無検繋
何為寸歩出門行
門を出でず
一たび謫落(たくらく)せられて柴荊(さいけい)に就(つ)きしより
萬死兢々(ばんしきょうきょう)たり跼蹐(きょくせき)の情
都府楼は纔(わず)かに瓦の色を看(み)
観音寺は只(ただ)鐘の声を聴く
中懐(ちゅうかい)好(よ)し孤雲(こうん)を逐(お)ふて去り
外物(がいぶつ)相逢(あいあ)ふて満月迎ふ
此の地身に検繋(けんけい)無しと雖(いえど)も
何為(なにす)れぞ寸歩も門を出でて行かん
私は左遷によりこの地にやってきて、身の置き所のない思いで謹慎しております。
大宰府政庁の瓦が少しだけ見え、観世音寺の鐘は音が聞こえるばかりです。
しかし、私の心は雲を追いかけ都へと向かい、すべてのものを満月が照らし迎えるように世の出来事を受け入れましょう。
この身を縛るものはありませんが、門を出ていくことなどありましょうか。
菅原道真は右大臣から大宰権帥(だざいのごんのそち)に左遷されたが、大宰府の行政への関与を認められず、給与も従者も与えられなかった。つまり、単なる降格ではなく、流人生活を強いられたのである。貴人の苦悩が美しい文章によって、千年の時を越えて私たちに伝わってくる。
しかし、大宰府跡の景観は、江戸時代にはすっかり荒廃し、昭和の高度成長期には開発による消失の危機に見舞われた。「土地が売れなくなる」と史跡指定拡張反対の蓆旗(むしろばた)が立ったこともあったという。
写真の三つの石碑のうち、最も古いのは中央の「都督府古趾」で、明治4年に大庄屋・高原善七郎が自費で建立したものだ。都督府とは大宰府の唐名(中国風名称)である。だから大宰府政庁の建物は「都府楼」と美しく表現される。
二番目は左手の「太宰府址碑」で明治13年に建てられた。篆額は有栖川宮熾仁(たるひと)親王、撰文は福岡県令・渡辺清、書は日下部鳴鶴(くさかべめいかく)という豪華な組合せである。
三番目は右手の「太宰府碑」で大正3年に建てられた。撰文は福岡藩儒の亀井南冥(かめいなんめい)であり、大宰府跡の保存を藩に提言していたという。ただし、碑文の内容に批判の声が上がり、南冥自身も藩内の派閥抗争に敗れて失脚したため、建碑されたのは没後百年を経てのことだった。
江戸時代から、明治、昭和と史跡保存の努力が続けられた。おかげで今、広大な敷地に立って、いにしえを偲ぶことができるのである。
大伴旅人は大宰府赴任中に「梅花の宴」を開いた。天平2年(730)正月13日のことである。うまい酒に美しい花、太宰治の気持ちは痛いほど分かる。