千葉県市川市に国府台(こうのだい)女子学院という頭がよくて上品な仏教系の学校がある。女子校の話をしようというのではなく、その校名である。校地ではないが、近くに「国府台」という地名がある。これは下総国府が置かれていたことに由来している。国府という地域の中心機能は、衰退した後も長く記憶され、地名として今に伝えられているのだ。
藤井寺市惣社(そうしゃ)一丁目の志貴県主(しきあがたぬし)神社に「河内国府址」と刻まれた石碑が建てられている。河内国府がこの辺りにあったことは、近くの国府遺跡を紹介した前回の記事でもふれている。
この神社は延喜式に記載されている由緒正しい式内社である。志貴県主という難読な名称に何か秘密のありそうな気配が漂う。境内の石碑に縁起が記されているので読んでみよう。
この神社は、河内古市より国府に至る南北約五粁に亘って連なる洪積層の「国府、古市台地」の北端に鎮座する延喜式内社(延喜式に記されている古社)である。
祭神は神武天皇の長子と伝えられる神八井耳命(綏靖天皇の兄に当る)を主神とし、天照大神、春日大神、武甕槌命、天児屋根命、比咩大神、表筒男と中筒男と底筒男のいわゆる住吉三神と神功皇后の各神を合祀している河内でも由緒ある神社であった。
大和時代初期のころ、柏原付近から道明寺付近にかけての肥沃な水田地帯は、大和朝廷の直轄地として「河内の志貴の県」といわれ、これを管理する豪族は神武の長子、神八井耳命を始祖とする志貴県主及びその同族である志貴首であったため、これらの豪族たちが本貫地に祖神を祭る氏神として創建したものが、この神社であったと考えられる。
三代実録の清和天皇の貞観四年(八六二)二月の記録によると、
「河内国志紀郡の人、外従五位下、行木工助(木工寮の次官)兼右大臣(藤原基経)家令(支配人)志貴県主福依ら三人に姓として〝宿祢〟を賜い、即ち本居(本籍地)を改め、左京職(平安京の左京)に隷す。
志貴宿祢は神八井耳命の後(子孫)、多朝臣と同じ祖なり。」
という内容が記されており、平安初期の八六二年の二月に本籍を志紀郡から平安京の左京に転じたことが判るのである。
その後、村上天皇の天暦年間(九五〇ごろ)諸国の諸経費を節減するために設けられた〝惣社の制〟により、各国々の国府(国を治める役所)に最寄りの有名社を「惣社」に充当して、その国内の有名祭神を一か所に集めて祭祀されることになったため、この神社を「河内の惣社の宮」と呼称することになり、近隣の集落をも惣社と称するようになった。
例祭は十月九日で明治五年に村社の扱いを受け本殿、拝殿を再建し現在に至っている。
国府のみならず惣社も地名して伝わっている。惣社は総社と書くことも多い。まさに河内国の中心地である。
さて、難読の「志貴県主」は、古代の行政単位である「河内の志貴の県」を管理する豪族の名前であった。志貴県主や志貴首は、神武天皇の長子、神八井耳命(かみやいみみのみこと)の子孫であるという。神八井耳命が皇位を嗣がなかったのは、次のような理由がある。
神武天皇の死後、庶兄タギシミミは皇位を我がものにしようとをカミヤイミミ、カミヌナカワミミの兄弟を殺そうとした。カミヤイミミは庶兄を討とうとしたがビビッて手足の震えを止められない。そこでカミヌナカワミミが兄の武器をとって庶兄を討ち取った。兄は武勇に優れた弟に皇位を譲ったのである。
カミヤイミミは、志貴宿祢(しきのすくね)と多朝臣(おおのあそみ)との共通の祖先だという。多氏の著名人物に太安万侶(おおのやすまろ)がいる。古事記の編纂者だ。志貴(しき)は志紀(しき)にも通じる。ここから北方面、大和川の向こうにJR志紀駅がある。
志貴といえば、志貴皇子(しきのみこ)という天智天皇の子がいる。「石ばしる垂水の上のさわらびの萌え出ずる春になりにけるかも」の秀歌で有名だ。皇子はこの地にどのように関係しているのだろうか。
志紀駅の近くに弓削神社が2つある。ここは弓削道鏡ゆかりの地でもある。この道鏡の出自は通常、物部氏だと説明されるが、一説には志貴皇子の子だという。皇子の子なら道鏡が皇位をうかがうのも当然だ。
しかし、皇子説は眉唾のような気がする。おそらくは志貴皇子→志紀→弓削→道鏡という連想と、道鏡が志貴皇子の子であってもおかしくない年齢だという牽強付会によるものだろう。
惣社に国府、志紀と、千何百年も歴史は語り伝えられてきた。地名を知れば、その土地が分かるというものだ。地名も重要無形文化財の対象とすべきではないだろうか。