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では問題です。頭はサル、体はタヌキ、手足はトラ、尾はベビ。これはいったい何でしょう? ほとんど哺乳類で一部が爬虫類の特徴を示すというが、実は鳥類である。答えは「鵺(ぬえ)」、バケモノだ。
「鵺のような」という形容がある。何を考えているのか分からない、正体不明の食わせ者をいう。そんな奴には、できることなら出会わずに過ごしたい。今日は、むかし退治されたホンモノの(バケモノだが)鵺のお墓である。
芦屋市浜芦屋町の芦屋公園内に「鵺(ぬえ)塚」がある。「ぬ江塚 あしやノ里」と読める。
鵺が退治されたのは、夜な夜な出現して、あろうことか天皇を苦しめたからだ。その後の展開も含め、説明板が分かりやすいので読んでみよう。
およそ800年ものむかし、源頼政が二条院にまねかれ、深夜に宮殿をさわがしていた怪鳥をみごとに射落とした。
それはぬえ(鵺)といって、頭はサル、体はタヌキ、手足はトラ、尾はヘビという奇妙な化鳥であった。その死がいをウツボ舟(丸木舟)にのせて、桂川に流したところ、遠く大阪湾へ流され芦屋の浜辺に漂着した。浦人たちは、恐れおののき芦屋川のほとりに葬り、りっぱな墓をつくったという。
ぬえ塚伝説は、『摂陽群談』『摂津名所図会』などに記されているが、古墓にまつわる伝説の一つと思われる。
現在の碑は、後世につくられたものである。
平成17年3月 芦屋市教育委員会
天皇を苦しめた鵺を退治したのは、源三位(げんざんみ)頼政である。源平内乱の幕開けを告げる以仁王の挙兵で活躍したことが有名だが、彼の武勇を語るなら鵺退治のほうがふさわしい。
『平家物語』巻第四「鵺」によれば、頼政は鵺を2回退治している。近衛天皇の仁平年間(1151~54)と二条天皇の応保年間(1161~62)である。このうち鵺の死骸の処理について記されているのは、近衛天皇の時のことで、次のように記されている。
さて彼変化の物をば、空舟(うつぼぶね)に入て流されけるとぞ聞えし。
そうあるばかりで、漂着先は示されていない。ところが、『平家物語』に取材した謡曲「鵺」では、鵺の亡霊の立場から、次のように謡われている。
頼政は名をあげて 我は名を流す空穂舟(うつほぶね)に 押し入れられて淀川の よどみつ流れつ行く末の 宇渡野も同じ蘆の屋の 浦わの浮洲に流れ留まつて 朽ちながら空穂舟の 月日も見えず暗きより 暗き道にぞ入りにける
うつほ舟は桂川から淀川に流れ、芦屋の浜辺に漂着したのだった。伝説が成長している。さらに詳しいことが知りたくて、説明板に紹介されている文献にあたってみた。
『摂陽群談』巻第九「塚の部」
兎原郡蘆屋・住吉両河の間にあり。俗伝云、近衛院御于仁平三年、源三位頼政公の矢に射落されし化鳥、〔舟+兪〕(うつろぶね)に入て、西海に流す。此浦に流寄て、留る事暫あり。浦人取之、是に埋み、鵺塚と成し、側に就て祀祭の所傳たり。亦東生郡滓上江村に、鵺塚あり。蘆屋浦に鵺を取て埋之、其柯を捨て海に流す。潮逆上て滓上江に寄り。拾之以て鵺〔舟+兪〕塚と成す歟と云の一説あり。蘆屋浦には、北岡に叢祠在て、鵺之社と号祭る。東西遥に隔て、同じ号あり。其証、所縁、不詳。
『平家物語』や謡曲「鵺」では、「仁平のころほひ」とおおまかだったのが、ここでは仁平三年(1153)と特定されている。また、現在の大阪市都島区都島本通三丁目にある「鵺塚」も紹介されている。伝説は拡大している。
『摂津名所図会』巻七
葦屋川住吉川の間にあり。今さだかならず。むかし源三位頼政、蟇目(ひきめ)にて射落したる化鳥、〔舟+兪〕(うつぼぶね)に乗せて西海へ流す。此浦に流れよりて止るを浦人こゝに埋むといふ。又東成郡滓上江村の東田圃の中にも、鵺冢と称するあり。何れも分明ならず。按ずるに又鵺の事も一勘あり。別記に書す。
蟇目は鏑矢(かぶらや)のこと。『平家物語』によれば、頼政がこれを使用したのは2回目の鵺退治、二条天皇の時で、その死骸の処理については何も記されていない。『摂津名所図会』の記述は、『平家物語』、謡曲「鵺」、『摂陽群談』の内容が融合しているようだ。伝説が独り歩きしている。芦屋市教委の説明板は、その到達点といえよう。
芦屋の鵺塚の場所は、芦屋川と住吉川の間にあるという。本日紹介している碑は、芦屋川の東側にあり、住吉川との間ではない。しかも、鵺塚の場所は定かでないという。碑のある場所は、松林が美しくて絵になるが、本当の鵺塚ではないようだ。
分からないことが多い鵺塚だが、鵺だけに分からなくて当然だろう。ただ、鵺の死骸を目にした芦屋の浦人たちがパニックになったのは、想像に難くない。カメラで撮って投稿したなら、UMAとして話題になったであろうに。