為政者の多くは、権力の大きさを示す象徴的な事物を有している。安倍政権の場合は桜を見る会で、その招待者数の多さがそのまま権力の大きさであった。菅次期政権の場合は、すべての批判をかわす一言「その指摘は当たらない」ではないだろうか。いくら「おかしいでしょう」と訴えても「まったく問題ない」と鉄壁の回答が返ってくるので、記者は諦めて黙り、官僚は黙々と従うようになる。黒いものを政府が白と言えば白になるという伏魔殿。巨大すぎて全体が見えないくらいだ。
催し物だとか伏魔殿だとか現代はソフトウェアで権力を見せつけているが、かつては土木や建築によって築かれたハードウェアが権力の象徴だった。最初は墳墓、その次は寺院。当時最先端の瓦葺建造物に人々は目を丸くしたに違いない。本日は墳墓から寺院への変遷を典型的に示す史跡を紹介しよう。
倉敷市日畑字赤井に「赤井堂屋敷(日畑廃寺)」があり、市の史跡に指定されている。
一般に「堂屋敷」は寺院跡を意味する地名でもあり、一昨年兵庫県神河町福本で見つかった寺院跡は「堂屋敷廃寺」と名付けられている。赤井堂屋敷も古くから大きな礎石や優美な古代瓦が出土することで知られていたようだ。
ところが平成半ばの規制緩和により宅地開発が進む可能性が高まったため、市教委は発掘調査を実施し史跡としての意義を明らかにしたのである。ここにはなぜか説明板が二種類設置されている。入字形屋根のある説明板を読んでみよう。
倉敷市指定史跡
赤井堂屋敷(あかいどうやしき)
白鳳時代(七世紀後半)創建の備中国では、有数の寺院址。
礎石列が今も埋まっているこの場所を中心に一丁四方(100m四方)におよぶ広い寺域に伽藍をととのえた雄姿をこの日畑の地にほこっていた。
背後には県指定史跡王墓山古墳をはじめ約九十の古墳がありその古墳をつくった子孫たちが建立したものであろう。
倉敷市教育委員会
王墓山古墳については「貴重な石棺に葬られた五人の首長」で紹介した。この首長の子孫が日畑廃寺を建立したという。建物跡は講堂と金堂と思われる二か所が見つかっている。伽藍配置の全容は解明できていない。よくある長方形の説明板を読んでみよう。
市指定史跡
日畑廃寺(ひばたはいじ)
昭和四六年九月一〇日指定
白鳳時代(七世紀後半頃)に創建された寺院跡である。東に開く浅い谷間に位置し、赤井堂屋敷の地名が残されている。
伽藍等については明らかにされていないが、現在一部見ることのできる花崗岩製の大形の礎石群は、七間四面の東向きの建物に伴うものと見られ、周辺の地形などと考え合わせ王墓山を背に東面する伽藍配置が想定されている。
本廃寺から出土する古代瓦には、単弁蓮華文軒丸瓦と吉備式と呼ばれる華麗な文様をもつ重弁蓮華文軒丸瓦の二種の軒丸瓦が知られており、顎(あご)部に波状文や凸帯文をもつ重弧文軒平瓦を伴う。なお、これらの瓦はここから約二・五キロメートル南西にある二子御堂奥窯跡で焼かれたことが判明している。
倉敷市教育委員会
出土瓦について詳細な説明がある。重弁蓮華文軒丸瓦には「吉備式」という華麗な文様がある。鋸歯文、連珠文、鋸歯文と三重の装飾が蓮華文を囲み、華麗に見せているのだ。秦原廃寺、栢寺廃寺、岡田廃寺、箭田廃寺、八高廃寺、英賀廃寺など備中地域で同様な瓦が見つかっており「備中式」とも呼ばれる。吉備氏のまとまりを示すものだろうか。
軒平瓦にはアゴがある。正面の文様を顔に見立て、下端の肉厚の部分を「顎(あご)」と呼んでいる。よく見える瓦当面は重孤文だが、目立たないはずの顎にも波や帯の文様が付けられている。これは吉備独特ではなく、外部とのつながりを示すのかもしれない。
白鳳時代は全国各地で寺院建築がさかんになり、ここ日畑の地でも、東向きに建てられた瓦葺の巨大建造物が、朝日を浴びて輝いていたことだろう。圧倒的な美しさに目を見張った人々は新たな時代の到来を実感したに違いない。我が国の原風景がここに誕生したのである。