高松城水攻めと本能寺の変は戦国史のクライマックスであり、秀吉の天下獲りはここから始まった。官兵衛は「ご運が開けましたな」と言ったが、中国大返しや毛利追撃阻止の背景には、運が開けるように周到な準備があった。それは制海権の掌握である。
玉野市上山坂(かみやまさか)に「高畠(たかばたけ)城跡」がある。
高い切岸に囲まれた主郭の端に土塁を築き、守りを固めている。地形は東から南にかけて開け、木々がなければ海がよく見えるはずだ。この城に拠っていたのは、どのような氏族だろうか。『東備郡村志』巻之三「児島郡」には、次のように記されている。
上山阪村 壘址 高畠和泉守
また、『吉備温故秘録』巻之三十九「城趾」下 二 児島郡には、次のように記されている。
古城山 上山坂村西 高畠右近居城といひ伝ふ。和泉守が次男なり。小串村落城の節、右近も当城を落て、備中国都宇郡宮崎村の城主に、由緒有之に付、宮崎村へ移りし由、此時は公方義昭公の幕下といふ。其後右近死し其子亦兵衛、慶長の末に、再び小串へ帰り住して、子孫本藩の臣となり、今にいたる。
高畠和泉守と高畠右近は親子だという。この高畠氏の先祖は阿波国で三好氏に仕えており、その勢力下にあった児島に移って来たらしい。小串城、番田城、胸上城など児島東部を拠点としていた。流通に関わるとともに水軍も率いていたようだ。
毛利氏の勢力が及ぶようになると、これに従っていたが、運命の天正十年(1582)に大きな決断をしたようだ。(天正十年)二月六日付けの羽柴秀吉書状(黒田家文書)には、次のように記されている。
備前児島内高畠色立、人質宇喜多方へ相渡由、尤候、弥立聞可有注進候
高畠氏が宇喜多方へ人質を出したというのだ。これで陸地では宇喜多氏、海上では高畠氏と、陸海連携して毛利氏の追撃を阻止できる態勢が整った。秀吉の覇権確立に大いに貢献したと評価できよう。
「小串村落城の節、右近も当城を落て云々」は、『吉備温故秘録』の別項「古城山」(小串城を紹介した内容)で「天正十七年」とされるが、詳細はよく分からない。とにかく高畠氏は、児島東部から備中早島の鶴崎神社のあたりに移り、江戸時代になって小串に戻って備前岡山藩に仕えたということだ。
大身となることはなかったが、高畠氏は日本史の重大な局面で動いた。高畠氏の動きが歴史を動かしたとも言えよう。功労者として宇喜多家中で重用されそうなものだが、そうならなかったのは天正十七年(1589)に何かがあったのだろうか。兎角に人の世は住みにくい。