「囲碁ボール」というレクリエーションをご存じだろうか。碁盤に見立てた凹凸マットに白黒のボールをゲートボールのように打つゲームで、五目並べのようにうまく並べると得点がもらえる。全国各地で行われており、日本囲碁ボール普及会という組織もある。
競技そのものも面白いが、その来歴もユニークだ。ゆかりの地には大きな碁盤があるという。さっそく行ってみよう。
丹波市柏原町大新屋(おおにや)の石見(いわみ)神社に「日本一の大碁盤」がある。
囲碁といえば本因坊文裕こと井山裕太名人だが、現在は四冠として活躍中だ。この神社は囲碁の神様を祀っているのだろうか。説明板を読んでみよう。
石見(いわみ)神社
祭神は、隣村との長年の紛争を解決した谷垣石見守です。
新山(石戸)は永正六年(一五〇九)に米百俵、銭百貫を代償として大新屋他四ヵ村の領有となりますが、以後百年にわたって山争いが絶えず、これを元和年間に石見守が囲碁の勝負で解決したと伝えられます。
郷人はこれに感謝し、文化五年(一八〇八)新井神社の境内に石見大明神として祀ったのが石見神社の始まりです。
その後、大正三年(一九一四)現在地に移されました。平成四年(一九九二)に日本一の石造り大碁盤が奉納されました。
鳥居の右にある「日本一の大碁盤」の標柱の裏には、碁盤の大きさが刻まれている。
この碁盤は石戸山の境界紛争を谷垣石見守が囲碁によって解決された古事にならい献納したものです。
縦二米五糎、横一米九十一糎、高さ七十八糎、厚さ二十三糎、重さ約四瓲。実物の二十・三倍で日本一の大きさです。
時代はまだバブルの勢いがあったのだろう。人の度肝を抜くものが好まれた。土地争いを囲碁勝負によって解決したという故事があったようだ。その武士の名は谷垣石見守。かなり強かったのだろう。近くに勝負の様子を民話風に説明した碑があるから読んでみよう。
石見神社縁起
私達村人は四季折々に石戸の山を仰ぎます 心なごんできます
緑豊かな石戸山堺をめぐる争いに心いためた殿さんの石見守は碁敵の駿河守と碁盤上山を賭けての白黒勝負
石戸の原は秋日和 勝負に挑む殿さんは村一番の知恵者つけ傘に小さな穴開けて碁盤打つ目をこぼれ日でここぞ決め手と合図する
勝負はついてお互いに見合す顔に笑みたたえ争い絶えて村栄え石見神社の社建てご恩忘れず奉納は碁石の花咲く大碁盤
私達の父母も祖父母も石戸の山を仰ぎみて心はげまし精をだされたことでしょう
詞茜司
それっていかさまじゃないの?とツッコみたくなるし、笑みをたたえて負けを認めた駿河守が気の毒におもえる。しかし勝負は、知恵を働かせたもん勝ちだし、武器を手にした争いよりよほどよい。本当にこんな出来事があったのだろうか。「新山沿革碑」という詳細な歴史を記した碑文もあるので読んでみよう。
広袤(こうぼう)五百町歩に及ぶ新山は遠く四百七十年の昔より大新屋外四ヶ村民の物心両面の支えとなって民生に大きく寄与し将来も永くわれらの宝庫として地域振興に裨益するであろう。新山は代々受継ぎ育ててきた先人の血が脈打っている心のふる里であり新山の沿革はそのまま地域の歴史でもある。新山は永正六年(一五〇九)に米百石銭百貫を代償として五ヶ村の領有となったが以後百年にわたって山争いが続発、元和年間に至って谷垣石見守の功労により紛争は解決して侵犯は跡を絶ち郷人ひとしく恩恵を享受、宝永元年墓碑を建立文化五年に石見神社を発祀してその徳を讃えた。大正十一年に入会権見返り分三十町歩を柏原町へ分割、大正十三年林野統一に際し一五九町歩を五ヶ部落縁故使用地に設定、昭和二十年石戸開拓地を創設三十町歩を分割譲渡、昭和二十五年五ヶ部落縁故使用地を分割管理、昭和三十年の町村合併には一〇二町歩を新町持寄り財産とし残余を旧新井村縁故使用地とする。昭和三十二年新山六ヶ村部落縁故使用地管理組合を創設し一部を分割管理に委ね今日に至る。
谷垣石見守のことはこれ以上分からない。ただ「紛争は解決して侵犯は跡を絶ち」とあるが、紛争はその後も起きていたようだ。だからこそ自分たちの権利を強く意識するようになった。「この争いは解決済みなのだ」なのだと。その意識が谷垣石見守という英雄を生んだと見ることもできる。
囲碁ボールが考案されたのは平成四年(1992)、日本一の大碁盤奉納と同じ年だ。バブル景気の頃は土地転がしだとか地上げ屋だとか、土地のトラブルが頻発した。ところがもっと昔の土地争いは、全国に普及するレクリエーションにつながっている。バブルも24時間戦った社畜伝説を生んでいるが、どうなのだろう。