勤皇武将,北畠親房を困らせたのが,南朝の分派行動「藤氏一揆」を画策した近衛経忠という公家である。小山氏など藤原流の氏族を結集し東国で一勢力を築こうとしたという。
岡山県苫田郡鏡野町中谷字近衛殿に「関白塚」があり,唐門を入ると「関白左大臣近衛経忠公之墓」がある。墓域は清掃され仏花が手向けられている。
東国に勢力圏を持とうとした経忠の墓が,なぜ岡山県にあるのか分からない。この地では墓域にある腹切岩で切腹して果てたと伝えられるが,正史では南朝の本拠である賀名生で没したこととされる。
『鏡野風土記』によると,昭和八年五月に近衛家関係者が展墓のため来町し,次のように詠んだという。
(中谷の山へのぼりて)いにしえのなきおもかげをおもいいで涙にそでをぬらしぬるかな 八十一媼芝香