お茶に金出すのかよ。その昔、ジュースやコーラと並んで自販機のお茶が置かれた頃には、そう突き放していたものだ。それが今じゃどうだ。自販機で買うのはもっぱら、お茶である。何リットルものお茶がこの夏もまた、私の体を潤してくれるだろう。
岡山市北区吉備津に「茶祖栄西禅師生誕旧跡地」がある。訪れたのはずいぶん前で、旧跡らしい雰囲気があった。吉備津神社の近くである。昨年、禅師の800年遠忌を記念して整備され、現在は美しい庭園となっている。
保延七年(1141)に備中吉備津宮の神職の家に生まれた。父の名は貞遠(Wikipedia)、季重(『郷土誌たかまつ』)、秀重(後述の石碑銘文)とゆらいでいる。
栄西禅師の伝記は、虎関師錬(こかんしれん)の仏教史書『元亨釈書(げんこうしゃくしょ)』に基づいて語られる。『元亨釈書』は、禅師の寂後百年を経た、元亨二年(1322)に成立した。これに父の名は記されていない。だから正確には、父の名は不明なのだ。『元亨釈書』の原文を読んでみよう。
釈栄西。号明菴。備之中州吉備津宮人。其先賀陽氏。薩州刺史貞政曾孫也。母田氏。懐孕八月而誕。母無困悩。永治元年四月二十日明星出時也。隣人曰。伝聞。不満期而有産者。不利其父母焉。母聞之不乳三日。児又不呱。有沙門陽厳。往来賀家。以事告其父。父大瞋曰。児已死乎。対曰。猶活也。厳誡婦家鞠育。甫此始澣浴。
栄西(ようさい)禅師は号して明菴(みんなん)といった。備中の吉備津宮の人で、先祖は賀陽(かや)氏である。薩摩守であった貞政のひ孫にあたる。母は田使(たつかい)氏である。禅師は母が懐妊してから八か月で誕生した。永治元年(1141)4月20日、明星の出る時刻であった。隣の家の者が来て、こんなことを言った。
「聞いたんじゃけどな、十か月にならんうちに産んだ子は、父母にようねえことをするらしいで」
母はこれを聞いて三日間乳をやらなかったが、子は泣くことはなかった。賀陽家に出入りしていた沙門陽厳(しゃもんようごん)という者が、そのことを父に告げた。父は驚き怒って言った。
「もう死んどんじゃねんか!」
これに対して陽厳は
「いやいや、生きとりますとも」
と答え、さっそく奥様に、きちんと子育てするよう、よくよく言い聞かせた。それからというもの、母は子の体をきちんと洗ってやるようになったということだ。
おっと、中世におけるネグレクト事案の貴重な報告例なのか。子育てに不安を感じるのは、今も昔も変わらないことが分かる。
いや、ここでは母の養育態度を問題とするのではなく、3日間乳を与えられなくても平気だったという赤ん坊に着目すべきだろう。この子は尋常でない、不思議な力を持っている。これは、将来聖者となる子どもの奇瑞譚なのである。
この史跡には記念碑が建立されている。
抹茶椀をかたどっているのが「茶祖」にふさわしい。「栄西禅師誕生聖地」の揮毫は建仁寺445世、第8代管長、竹田益州師である。建仁寺の開山はもちろん栄西だ。
この記念碑、どこか栄西に似ている。そう思って栄西の肖像(彫像)を調べると、栄西らしさが表現されている部位があった。あの円筒形の独特な頭部である。
高僧はしばしば頭部を特徴的に描かれる。法然の頭頂部はへこんでおり、円珍はとがっている。そして栄西は平らである。
栄西の頭については、説話集『沙石集』(弘安六年、1283年成立)巻十に次のような記述がある。
長(たけ)の無下にひきくおはしければ、出仕に憚りありとて、遥かに年たけて後行ひて、長四寸高くなりておはしけり。我滅後五十年に、禅法興すべき由記しおき給へり。
栄西は背が低くて人前に出るのが恥ずかしかった。大きくなって、ある修行をすると背丈が四寸伸びていたという。どこが伸びたのか。おそらくは頭だ。知恵がたくさん詰まって円筒形になったに違いない。
また、自分が死んだ後、50年後には禅宗が栄えているだろう、と予言を記しているという。調べてみると『未来記』という書物である。聖徳太子『未来記』はトンデモ本、すなわち偽書だが、栄西『未来記』は本物である。しかも予言のとおりに、禅宗の権威は高まったではないか。凄いぞ、栄西禅師。
少々、話が迷走している。「予言者」栄西ではなく、「茶祖」栄西である。有名な『喫茶養生記』の冒頭を書下して読んでみよう。
茶は養生の仙薬なり。延命の妙術なり。山谷之を生ずれば其地神霊なり。人倫之を採れば其人長命なり。天竺、唐土、同じく之を貴重す。我朝日本、曾て嗜愛す。
お茶とは何かを、これほどまで格調高く述べた文章は他にないだろう。長生きをするという。確かにそうだと思う。このような記述もある。
天台山記に曰く、「茶を久しく服すれば羽翼を生ず。」云云
お茶を長く飲んでいると、翼が生えてくるという。んなわけねえだろ、とツッコむや否や、禅師は次のように続ける。
身軽きを以て故に爾(しか)云ふなり。
おお、禅師さま、おっしゃるとおりでございます。お茶を飲むと元気が出て、体が軽く感じてまいります。私だけではない。鎌倉将軍もお茶の効能を実感したというのだ。『吾妻鏡』建保二年(1214)2月4日条を原文で読んでみよう。
四日、己亥、晴、将軍家聊御病悩、諸人奔馳、但無殊御事、是若去夜御淵酔余気歟、爰葉上僧正候御加持之処、聞此事、称良薬、自本寺召進茶一盞、而相副一巻書令献之、所誉茶徳之書也、将軍家及御感悦云々、去月之此坐禅余暇書出此抄之由申之
四日、晴れ、将軍が少し体調をくずした。家来はあわてたが、特段のことはなかった。これは昨晩の飲み過ぎの影響だろうか。ちょうど栄西という僧が加持祈祷に来ていたが、将軍の様子を聞いて、良薬だと寺から取り寄せた茶を一服進上した。それに添えて、一巻の書物も献上した。茶の効能を記した書である。将軍はお喜びになった。
どうやら将軍実朝は二日酔いだったようだ。わかるわかる。あのどんよりした時に、お茶は命の水である。お茶に添えて将軍に献上した書物こそ、『喫茶養生記』であった。
吉野ヶ里町立東脊振小学校の校歌の三番に、栄西禅師が歌われている。
思えば村は 栄西の
茶の発祥の ゆかりにて
ここに六年を 伸びてゆく
吾等 東脊振の小学校
宋から持ち帰った茶の種を日本で初めて蒔いたのが、旧東脊振村(現在は吉野ヶ里町)だった。鎌倉将軍を喜ばせ、800年後の未来も人々の健康を守っているお茶を招来した栄西禅師。小学生に負けないよう、私も栄西の功績を高らかに謳いたい。