「丹後七姫」という観光キャンペーンがある。乙姫、羽衣天女、間人(はしうど)皇后、小野小町、静御前、細川ガラシャ、これで六人だ。最後の一人は京丹後市観光協会と海の京都観光推進協議会とで、解釈が異なっている。
京丹後市観光協会は川上摩須郎女(かわかみのますのいらつめ)、海の京都観光推進協議会は安寿(あんじゅ)姫だとしている。観光キャンペーンだから正解はないのだが、団体双方に思惑はあるようだ。
「京丹後市」案では、七姫ゆかりの地すべてが京丹後市内に含まれる。これに対して「海の京都」案では、宮津市や舞鶴市にも観光ルートを広げることができる。それぞれの所管に合ったキャンペーンが展開できるのだ。
丹後七姫は日本酒にもなっている。飲んだので空き瓶で申し訳ない。
左は与謝野町の与謝娘酒造の「与謝娘」、右は宮津市のハクレイ酒造の「白嶺」だ。手ぬぐいを子守かぶりにしているお姉さんが安寿姫である。
舞鶴市下東(しもひがし)に「安寿姫塚」がある。
安寿は有名な森鷗外『山椒大夫』に登場する悲劇のヒロインである。弟の厨子王(ずしおう)は、大きくなって丹後の国司となり、佐渡で生き別れた母に再会する。安寿はどうなったのか。「のちに同胞を捜しに出た、山椒大夫一家の討手が、この坂の下の沼の端で、小さい藁履(わらぐつ)を一足拾った。それは安寿の履(くつ)であった。」安寿は入水して果てたのである。
しかし、地元の伝説では少々話が異なっている。説明板を読んでみよう。
安寿姫塚の由来
村上天皇の天暦年間(九四七)奥州の大守岩城判官将氏は、えん罪を受け筑紫に送られた。その子姉 安寿姫、弟 津塩丸(厨子王)は母と共に父のあとを追って、越後の国 直江の浦岐橋に来たとき、姦賊 山岡大夫に母は佐渡が島へ、姉弟は宮崎の二郎に由良の湊で、三庄大夫に売られ「汐汲み」「柴刈り」にと冷酷な苦難の毎日を送っていた。
ある雪の朝、弟は浜小屋を抜け出し和江の国分寺に助けを求めた。住僧は彼を行季(こうり)の中にかくまった。追手はこれを見つけ槍で突いたが刺さらないので中をしらべると、石の地蔵さんが身代りに入っていたと言う。
難を逃れた厨子王は洛陽に行き、後に丹後の国司となり佐渡の母に再会する。
これより先、安寿姫も小屋を抜け出し京に上る途中、中山から下東に出る坂道で疲労と空腹に堪えきれず死亡した。
この坂道を後に「かつえ坂」と呼ぶようになった。
安寿姫の亡きがらは、建部山の麓この地「宮の谷」に葬られた以後今日まで安寿塚には「かつえの神」として参詣者が絶えない。毎年7月14日は夜祭りが行われ池畔にたくさんの提灯をともし安寿姫の霊を慰めている。
安寿は「疲労と空腹に堪えきれず死亡した」という。現実の死はそういうものだったろう。ここは地元の伝説に沿って史跡を紹介する。まずは悪役、山椒大夫である。
宮津市石浦に「山椒太夫屋敷跡」がある。石碑は「三庄太夫」、森鷗外は「山椒大夫」と様々な表記がある。石碑の向こうには古墳があり、石室が露出している。
森鷗外によって「今年六十歳になる大夫の、朱を塗ったような顔は、額が広く腭(あご)が張って、髪も鬚(ひげ)も銀色に光っている。」と描かれた山椒大夫は、丹後由良の長者である。説明板を読もう。
山椒太夫は由良嶽山麓石浦の地に屋敷を構え、三庄を押領し富み栄えていたと伝説は伝えています。この山麓台地の屋敷跡は、在地荘官として交通の要地である由良湊にあって散所の民を支配し、或いはこの地の領民を駆使して特権を振るい、富裕の大分限となった山椒太夫に仮託される主人公の、千軒長者にふさわしい構想と規模をもって語り伝えられており、その周辺には山椒太夫の物見台や糠塚、それに、城島にあったと伝えられる別荘や馬馳け場などが配されています。
貝原益軒は元禄年間この辺りを旅したとき、「石浦といふ所に山椒太夫の屋敷の跡とて石の水船あり」と書きとめていますが、それは当時すでに此処の七世紀後期の古墳が全く崩壊し、石室が露出した侭で放置されていたことを物語っています。そして、この事は、石浦をはじめとする由良嶽山麓の傾斜地一帯が古くからの聚落であり、古墳時代からの複合住居址であったことを示しているとも言えます。この石浦古墳からは石櫃、土器類、鉄剣、曲玉類等数多く出土し、朱櫃を洗ったときには由良川の水が河口まで、一面に朱で染まったとも言い伝えられています。
貝原益軒が『西北紀行』で「石の水船」と記していることから、古墳の石室が古くから山椒大夫ゆかりと語られていたことが分かる。ここから国道178号を北へ進むと由良に出る。『由良湊千軒長者』という歌舞伎の演目があるが、山椒大夫の富裕さをよく表している。
さて、山椒大夫に買われた安寿と厨子王は、「汐汲み」と「柴刈り」をさせられた。
宮津市由良の丹後由良海水浴場の西端に「汐汲浜」がある。ここで安寿が潮を汲んだのだろう。
同じく宮津市由良、七曲八峠に向かう道に「柴勧進の碑」がある。ここで柴刈りをしていた厨子王を気の毒に思った村人が、そっと柴を渡してやったという。
宮津市石浦の安寿の里もみじ公園に「安寿と厨子王像」が建てられている。二人は父母に逢うために都を目指す。「あの中山を越して往けば、都がもう近いのだよ。」作業の途中を抜け出したので、実際には旅装束ではない。
舞鶴市和江に「和江の国分寺址」がある。
厨子王が逃げ込んだのがこの寺である。国分寺というが正確なことは分からないようだ。詳しく知るために説明板を読もう。
この地方に残されている山椒大夫伝説では厨子王丸が山椒太夫の邸を逃げて山越しに此処にたどりつき、国分寺の僧にかくまわれたと伝えられています。
此処の本尊は毘沙門天で、この国分寺はのちに、山椒太夫のため焼き払われ、再び建立されることもなく、今では毘沙門堂が残っているだけです。
この国分寺は「一国一寺の国分寺にあらず、山号を護国山と言い、或いは佛国山と称した」と語られたり、俗には「府中に移るまでの国分寺」とか、「丹後ではまだ確認されていない国分尼寺ではないか」とこじつけるものもあるが、このようなものとかかわらず、素直に「和江の国分寺」として語り伝えたいと思います。
厨子王丸は、此処で追手の難をまぬかれ、国分寺の僧に連れられて都にのぼり、時の帝の前で父の罪のぬれぎぬをはらし、丹後の国司をゆるされるきっかけとなる訳で、山椒太夫伝説―安寿と厨子王の物語の上でも極めて需要な舞台となっているところです。
尚、毘沙門天由来書には「人皇四十五代聖武天皇天平年間国分寺を之の地に建立せられ、当毘沙門天を安鎮し」と伝えているということです。
厨子王はこの寺のおかげで生きながらえることができ、出世して山椒大夫に復讐することとなる。人生のターニングポイントとなった場所である。そして、安寿と厨子王の永遠の別れとなった場所に近いという。
毘沙門堂の近くに、このような葉の植物が生え、「別れの盃」という説明板がある。
ここに生えている「擬宝珠」は、山椒太夫の伝説の中で「安寿の姫と厨子王丸が山椒太夫の酷使に堪えかね、二人は密かに館から逃れ、和江国分寺の少し奥の谷間に隠れ、擬宝珠の葉で谷水を汲んで別れの水盃を交わした。」と伝えられています。
又、水盃をしたその谷を以来「かくれ谷」と言い伝えられています。
安寿が亡くなったのは、それから間もなくのことであった。厨子王は都に上って出世し、丹後国司として帰ってくる。そして、復讐劇が始まるのだ。森鷗外の作品では、改心した山椒大夫が以前にも増して栄えたとされるが、中世の説話はそんなに甘くない。
宮津市由良、七曲八峠に向かう道、「柴勧進の碑」の隣に「首挽松の碑」がある。往来する人に山椒大夫の首を鋸引きさせたというのだ。ヒューマニズムを重んじる近代文学には採用されなかった展開である。
宮津市由良の如意寺の境内に「山椒太夫首塚」がある。
こうして首塚の前に立つと、山椒大夫は確かにいたのだろうと思う。彼はこの地方の開発領主であり、地域の発展に多大な貢献をした。一方で、生産手段を持たない民衆から不当な利益を搾取していたのだろう。当然、評価は二つに分かれる。どちらに力点を置いて語り伝えるかだ。傍らに立つ説明板を読んでみよう。
首塚由来
奥州五十四郡の大守であった父岩城判官政氏の冤罪が晴れ、その旧領及び丹後の国司となった厨子王丸は恨らみ重なる山椒太夫を引捕え青竹の鋸で首引きの極刑に処した。太夫臨終の折当寺住職の諭しに依り浄菩提心を発し「我れ今より後緒人の奇禍に遭う者あるを見ればそれを救うの誓願を立てん。生来所造の諸悪の罪障この発願に依りて消滅せしめ給え」と唱えて命終したりと云う。後世の人太夫及びその一族の霊を憐れんで供養のために首塚として建てたのがこの宝篋印塔である。
南北朝時代乃至室町時代のものであり約六百年を経過している。
どのような悪人であっても、最期には浄い心となって罪障消滅を願うのである。善人なおもて往生をとぐ。いわんや悪人をや。立派な首塚が建立され、山椒大夫も成仏したに違いない。
宮津市由良に「森鷗外文学碑」がある。中世の説教節(せっきょうぶし)は森鷗外によって近代文学に昇華した。鋸引きの刑を描かない代わりに、過酷な環境にも負けぬ情愛を語り、人としての気高さを伝えたのである。
碑は「汐汲浜」の手前にある。碑文には、安寿と厨子王が働く場面が採用されている。
厨子王が登る山は由良が岳の裾で、石浦からは少し南へ行って登るのである。柴を苅る所は麓から遠くはない。 略
浜辺に往く姉の安寿は、川の岸を北へ行った。さて潮を汲む場所に降り立ったが、これも汐の汲みやうを知らない。心で心を励まして、やうやう杓を卸すや否や、波が杓を取って行った。
森鷗外を愛読している人は少ないかもしれないが、せめて新潮文庫『山椒大夫・高瀬舟』は推薦したい。「山椒大夫」をはじめ珠玉の短編が収録されている。「最後の一句」は本ブログでも採り上げたことがある。
安寿と厨子王、そして山椒大夫、みんな架空の人物かもしれない。それでも、舞鶴市と宮津市にまたがって点在しているゆかりの地を巡れば、彼らの実在は確かに思える。そこが伝説の妙味である。丹後七姫めぐりに安寿姫は欠かせない気がしてきた。