総アクセス数が39万を突破しました。これもひとえに皆様のおかげと深く感謝するとともに、いっそうの精進を誓います。今後ともよろしくお願いいたします。
モリカケ問題は自ら死を選ぶ役人まで出しながら、もう終わったかのように誰も口にしなくなった。権力を持つ者が黒を白と言い続けると、本当に白になるらしい。言い逃れがまかり通ることに悲憤慷慨する心ある人はいるはずだ。
本日は、工事関係者の自殺や病死が相次いだとされる大型公共事業を採り上げる。いったい何があったのだろうか。
岐阜県養老郡養老町大巻の県指定史跡「大巻薩摩工事役館跡」に「平田靱負(ゆきえ)翁像」がある。
平田靱負は薩摩藩の家老。宝暦三年(1753)に幕府が藩に命じた木曽三川改修工事では、総奉行として陣頭指揮を行った。ここ大巻にあった役館とは、工事の現場事務所である。これは「宝暦治水」と呼ばれ、我が国の治水史に特筆すべき大事業であった。
像のとなりに昭和三年建立の「薩摩工事役館遺趾平田靱負翁終焉地」と刻まれた石碑がある。揮毫は同郷の伯爵東郷平八郎である。小さな座像と辞世の歌碑もあり、「住みなれし 里も今更 名残りにて 立ちぞわづらふ 美濃の大牧」と刻まれている。
宝暦五年(1755)、完工直後の5月25日、靱負はこの地で亡くなった。彼を含め工事中に命を落とした関係者は「薩摩義士」と呼ばれ顕彰されている。彼らの死は、決して尋常なものではなかった。説明板には次のように記されている。
むかし濃尾平野は、木曽、長良、揖斐の三大川が乱流していて大雨のたびに河道を変え、自然の暴威になすすべもない状態でした。しかし当時の領主たちには根本的な対策をたてる力もなく、再三の請願に幕府もようやく腰を上げ、宝暦三年(一七五三)十二月、薩摩藩に治水工事のお手伝いを命じました。
これが宝暦治水工事で、その規模が江戸時代濃尾における治水普請中最大であったばかりでなく、三川の分流をも企てた画期的なものでした。
薩摩藩では「住民を救い、日本国を興す」ためにと、この大業をひきうけ、宝暦四年閏二月九日、総奉行平田靱負以下の藩士が当地(当時安八郡大牧村)に到着、豪農、鬼頭兵内宅を元小屋(本陣)に、根古地新田(旧池辺小学校敷地)中島九郎右ェ門宅を第二元小屋として工事に着手しました。
工事は濃、尾、勢三国にわたり、九百四十七人という多数の藩士が馴れない治水事業で苦労しました。そのうえ数次の出水で作業は思うように進まず、つよい幕吏の督責から自刃する人が続出、疫病に倒れたかたと合わせて、実に八十八名の犠牲者を出しました。
こうして、あらゆる困難をも克服、一年後の同五年三月、各工区とも見事に竣工、五月二十二日の幕府の検分には、一同その出来ばえに驚嘆したということであります。
平田総奉行は藩主島津重年公に工事の完成を報告したのち、多数の犠牲者を出し四十万両の大金を費消した責任を一身に負い五月二十五日早朝、この元小屋において割腹せられたのであります。
東海三県の今日の発展は、ひとえに義士のおかげであると申しても過言ではなく、その精忠、義烈は永く国民の鑑として仰ぐべきであります。
洪水から人々の暮らしを守るという義に殉じた人々は88名で、このうち薩摩藩関係者は85名である。その内訳は自害53名、病死32名。工事の遅れの責任を負ったり、幕府の冷酷な仕打ちに憤慨して自害に及んだりしたという。
養老町根古地の天照寺に県指定史跡「天照寺薩摩工事義歿者墓」がある。
墓碑は三基あり、右から八木七郎左衛門、松下新七、山口清作が葬られている。この三人は「病死」が通説だが、役館跡に掲示されている名簿には「自刃と思われる」とある。
養老町大場に県指定史跡「根古地薩摩工事義歿者墓」がある。24柱がここに眠る。
手前は遺骨を納めた慰霊堂で、昭和46年に建てられた。
その奥に「薩摩工事義歿者之墓」と刻まれた墓碑がある。大正二年の建立である。24柱はいずれも病死だという。養老町では病死が多いが、桑名市北寺町の海蔵寺に24名、海津市南濃町太田の円成寺に13名と、自害したと伝えられる薩摩義士はたくさんいる。
自害に追い込まれるという薩摩藩士に対する苛烈な仕打ちが倒幕の遠因となったと言われるのだが、実際には幕末に「薩摩義士」について語られることはなかった。義士のメジャーデビューは、明治三十三年(1900)の木曽三川分流工事の竣工に伴う招魂祭である。三川分流の原点は薩摩工事にあるとされた。
ここから物語は始まる。海蔵寺に葬られている永吉惣兵衛の死を記録した古文書には、次のような表現がある。
腰物にて致怪我相果候
これは幕府をはばかり「自害」を言い換えたものだという。三川分流は未曽有の難工事である。悩み苦しんだ人も多かっただろう。自ら命を絶つ人がいても不思議ではない。幕府の無理難題に悲憤慷慨して自害したが、それさえも明らかにできなかった。こうした解釈により物語が成長していく。
実のところ、多くの薩摩藩関係者が亡くなったのは事実だが、自害したという記録は残っていない。自害した者が多ければ、噂になって記録されたであろう。平田靱負の自害もまた同じである。死因のほとんどは流行病であり、靱負も死の前日に血を吐いたとの記録があるそうだ。
誰もがドラマチックなストーリーが好きなのだ。事実は脚色されてドラマとなる。どうやら血涙の歴史物語が創作され、今に語り伝えられているようだ。それを楽しむもよし、真実を明らかにするもまたよし。ただしモリカケ問題は、首相を陥れるためにフームアップされたドラマではないことを、あえて明記しておこう。