後醍醐天皇は鎌倉幕府から「顔を洗って出直しな」と言われたわけではなかろうが、隠岐配流の途中にお顔を洗われたという史跡がある。冷たい水にシャキッとしたのが功を奏したのか、隠岐から出直して幕府の討滅に成功したのである。
津山市種に「洗顔清水」がある。
湧水には伝説が生まれやすい。命の源ともいえる清冽な水は、求める人の心を動かすからだ。長旅で疲れた天皇の御心も癒したことだろう。説明板にはどう書いてあるだろうか。読んでみよう。
元弘二年(一三三二)三月、後醍醐天皇は鎌倉幕府討滅計画の失敗により隠岐島に配流された。その際の美作通過の行程について、「太平記」や「増鏡」によると、播磨との国境杉坂や雲清寺(うんせいじ)、久米のさら山をへて院庄に入ったと推定される。
このうちの雲清寺の所在地については直接のてがかりがなく、配流の具体的な道筋はながく不明とされてきた。そこで、幕末の国学者平賀元義らは、久米のさら山を詠んだ後醍醐天皇の歌「聞きをきし久米のさら山越えゆかん道とはかねて思ひやはせし」の「越えゆかん」の句などから、天皇の配流の道筋を押淵(おしぶち)から種(たね)をへて皿(さら)に至る山越えの古道とした。そして、雲清寺をここより西約一〇〇メートルの多祢(たね)神社東の峠付近と考証した。
その途中のこの場所には、昔からいかなるひでりにも絶えることのない清水があり、天皇はここで顔を洗ったと伝えられる。今も地元の人々は洗顔清水と呼び、後世に守り伝えている。
平成十年二月 津山市
この伝説で重要視されているのは、顔を洗ったというエピソードではなく、天皇の移動ルートである。紹介されている「杉坂」「雲清寺」「久米のさら山」「院庄」のうち、杉坂峠と院庄館跡は場所が明らかである。「久米のさら山」については、本ブログ記事「久米のさら山さらさらに」で位置を考証した。
雲清寺については、中世の出雲街道を現在の県道449号押淵皿線に比定し、寺跡を考証している。後醍醐天皇配流の道筋を現代は、「さら山時代祭」の時代行列が練り歩いている。今年は11月10日(日)に開催される。
県道をもう少し西に進むと「後醍醐天皇御駐輦場跡」があり、天皇の歌碑が建てられている。
大正十五年に土地の人々が天皇を偲んで建てたもので、次の文字が刻まれている。
後醍醐天皇御製
きゝおきし 久米のさら山 越えゆかん 道とはか祢て 思ひやはせし
御歌所寄人正五位勲四等阪正臣謹書
下部には「通輦之址」とあり、天皇の乗った輿がここを通過したことを示している。流麗な文字で御製を書いたのは阪正臣(ばんまさおみ)という歌人で、書道教科書のお手本も書いた書家でもある。
なに、これから久米のさら山を越すというか。知っておるぞ、久米のさら山さらさらに、と詠われた場所じゃな。自分がここを通ることになろうとは、思いもせなんだぞ。わっはっは。
歌は久米のさら山の手前で詠まれたから、歌碑はこの場所がふさわしい。自分の身の上を豪快に笑い飛ばすほど逞しかったかどうかは分からない。天皇にはまだ長い道のり、そして中国山地越えが待っていた。
後鳥羽上皇のごとく隠岐の地に没するやもしれぬ。そんな絶望もよぎったことだろう。失意の天皇を慰め励ましたのが児島高徳という地方武士だ。白桜十字詩の故事である。天皇はもう一度顔を洗って出直した、という話を次回にしよう。