泣ける名曲「かもめはかもめ」は、若山牧水の絶唱「白鳥は哀しからずや…」をモチーフとしているのだろうか。海の青、空の青にも染まることなく、ゆらりゆらりとただよう姿は、どこかあきらめの境地に見える。しょせんかもめなんてさ、ひとりで空をゆくのが似合ってんだ。
同じかもめでも、曲調が異なればイメージもぜんぜん違う。本日は童謡に歌われたかもめを訪ねて、三原市に向かうこととしよう。
三原市宮浦二丁目の宮浦公園に「かもめのすいへいさん童謡碑」がある。「童謡一路」の揮毫は、三原市長の長尾正三である。
この童謡が三原駅の入線メロディに使用されるほど親しまれているのは、作詞者が三原市出身だからである。碑には「女流詩人武内俊子生誕記念碑」と刻まれている。どのような人なのか、プロフィールが裏面にあるので読んでみよう。
女流詩人 武内俊子
武内俊子さんは、明治三十八年九月十日、当三原市浄念寺で、父渡辺俊哲の長女として生まれ、県立広島高等女学校を卒業され、大正十四年秋、広島市出身の武内邦次郎氏と結婚されてから、東京世田谷三軒茶屋に移られました。
よき母である傍ら、昭和四年、五年頃から文筆生活に入られ「かもめの水兵さん」「リンゴのヒトリゴト」「船頭さん」「赤い帽子白い帽子」等の童謡を、作詞された外、数多くの童謡を書き残されております。
昭和二十年四月七日、四十一才の若さで三軒茶屋の自宅で病歿されました。菩提寺は、広島市江波町の慈仙寺にあります。
昭和五十三年十月 柳井尭夫
「かもめの水兵さん」は戦時色が濃くなる昭和12年の発表だが、そんな古さはまったく感じられない。詩のモチーフとなったのは、昭和8年に横浜港の大桟橋で見たかもめで、山下公園にも童謡碑がある。俊子はハワイ布教に出掛ける叔父(母の妹の夫・足利瑞義)を見送りに来ていたという。
俊子の生家である浄念寺に行ってみよう。
三原市西町二丁目にある浄土真宗本願寺派の浄念寺に「武内俊子生誕地碑」と「かもめの水兵さん童謡碑」がある。
「童謡詩人 武内俊子 ここに生まれる」と大きく刻まれている。童謡碑の内容は宮浦公園とほぼ同じで、新情報はお母さんの名前をツナということくらいだ。左にある少し大きめの碑は、シルクロードの大谷探検隊の一員となった渡邉哲信を顕彰した碑だ。哲信の姉は俊哲に嫁ぎ、その子が武内俊子である。
宮浦公園に戻って「リンゴのひとりごと童謡碑」を鑑賞しよう。
リンゴを歌っているといえば、戦後すぐの「リンゴの唄」くらいしか知らない。そういえば「ペンパイナッポーアッポーペン」という意味不明な曲もあった。童謡「リンゴのひとりごと」はどのような曲なのか、裏面の碑文を読んでみよう。
武内俊子(たけうちとしこ)は1905年三原市に生まれ、その後上京。1929年頃から童謡や童話の創作を始め「コドモノクニ」や「幼年倶楽部」につぎつぎと作品を発表。1937年に童謡「かもめの水兵さん」が発売され、戦前の童謡の中では最大のヒットを記録した。
「リンゴのひとりごと」はヒットを連続していた1939年の作品で、1940年2月にレコード発売されると同時に全国の子どもたちに愛唱された名曲。
平成十九年九月吉日 国際ソロプチミスト三原
戦前最大ヒットの「かもめの水兵さん」は、今も全国の園児が力いっぱい歌い、横浜では「ヨコハマのカモヘイマシュマロ」というゆる~いお土産にもなっている。今も各国海軍の軍服であるセーラー服は、女学生やかもめが身に着けることで「カワイイ」を獲得した。「かもめはかもめ」のかもめがセーラー服を着ていたら切なすぎるだろう。