ゆづり葉のいみじうふさやかにつやめきたるは、いと青うきよげなるに、思ひかけず似るべくもあらず、茎の赤うきらきらしう見えたるこそ、賤しけれどもをかしけれ。
能因本『枕草子』47段「木は」
ユズリハのふさふさした葉っぱは青々としてさわやかな感じだけど、くきが赤いのはちょっとどうよ。少しヘンだけど素敵ね。清少納言がそう言うから、どんな木なのか気になっていた。まさか山城のてっぺんで目にすることになろうとは。
新見市上市に市指定史跡の「楪(ゆずりは)城址」がある。右側に写る木がユズリハである。尾根筋にうまく曲輪を配置した山城で、規模としてはかなり大きい。
なぜこの城は雅な名前がついているのか。いったい誰が大規模な城を築いたのか。そして、どのような争いがあったのか。登城口にある説明板を読んでみよう。
楪城は鎌倉末期(正応元年~永仁元年)頃に、新見氏によって築城されたものと思われる。その後、戦国時代に最後の城主新見蔵人貞経は、三村氏の侵入によって滅ぼされ行方不明となる。
代わって、永禄十年(一五六七)に三村元範が楪城主となり入城する。しかし、天正三年(一五七五)の備中兵乱で毛利方の小早川隆景を総大将として総軍二万騎が押し寄せ、宍戸備前守と中島大炊介元行の攻撃で落城する。元範は十騎ばかりで落ち延びたが、高尾の石指(いしざし)で、塩山城主の多治部雅楽頭景春が五十騎ばかりで追いかけて来、戦いの末討たれる。
そして、楪城は毛利方の吉川元春のものとなり、元春の家来今田上野介経高が在番となる。その後、慶長五年(一六○○)の関ケ原戦いで、西軍の毛利方は敗れ、楪城は廃城となる。
楪城は代表的な連郭式の山城で、山陽と山陰の交通の要衝にあり、南北に長く、高梁川と矢谷川に囲まれた天険の要害である。備中では松山城につぐ規模をもち、別名新見城ともいう。
本丸・二の丸・三の丸からなり、本丸は標高四九〇メートルの所にあり、二の丸の南と三の丸の北に大きな堀切がある。なお、三の丸の頂上付近には井戸も残っている。
本丸は新見氏時代のもので、のち三村氏により二の丸・三の丸が増築されたものと思われる。この山城には名木の楪の木が生えていたので、その名がつけられたという。
(『名城名鑑』『日本城郭大系』より)
楪城を築いた新見氏は、新見荘の代官として一帯を支配するようになった国人領主である。この新見氏から城を奪った三村氏は備中の覇者で、楪城主となった元範は当主元親の弟である。元親は父を暗殺した宇喜多直家に対する遺恨により、天正二年(1574)に毛利氏から離反したため、備中各地で毛利勢との戦闘状態となる。楪城は翌三年(1575)正月に落城したと伝えられるが、前年11月だったという説もある。
本丸は石積みで補強されている。この本丸と二の丸を結ぶ「帯曲輪(おびくるわ)」がすごい。長さが約80mもある。
二の丸は眺望が利き、山陰と通じる国道180号を押さえることができる。
これは二の丸の手前にある大きな堀切である。山城ならではの遺構だ。
本丸から南西に突き出した郭に「花(端)の丸」がある。
この郭を舞台に激しい戦闘が行われたようだ。三村家遺臣が記したという『備中兵乱記』を読んでみよう。「新見譲葉城落之事附流刑之事」より
然るに元範、一人当千と頼み思はれける富屋大炊之助・曾爾(彌カ)・八田以下忽に翻て、正月八日の巳の刻ばかり、敵を諸丸に引入れ、端丸に火をかけ、一同本丸に詰めしかば、元範少も不屈、各々我に忠義を存ぜん者は今此時ぞと云へば、勇士七十騎ばかり物具ひし/\と堅めて、元範と一所に死を決する覚悟にて立出たり。
激しい戦闘が続き追い詰められた元範は、忠義に厚い伊勢入道の強い勧めで落ち延びることとした。
新見市高尾の市立高尾小学校に市史跡「三村元範終焉の地(早乙女岩)」がある。
巨大な岩の上に「楪城主三村元範公戦死之遺蹟」と刻まれた石柱が立つ。説明板を読んでみよう。
三村元範は、備中松山城主・三村元親の弟で、永禄年間(一五五八~一五七〇)に上市にあるゆずりは城の城主となった人物である。
しかし、 天正年間に毛利・宇喜多連合軍と三村勢との間で備中諸城を巡って激戦が展開され、天正二年(一五七四)冬、ゆずりは城は毛利軍に攻められ、翌三年正月に落城した。
このとき、元範は伊勢入道ほか八名ばかりの兵と落ち延びようとしたが、高尾石指の早乙女岩で毛利軍の追っ手・多治部雅楽頭景春が率いる五十騎あまりの兵と戦闘になり、この地で討ち死にした。
新見市教育委員会
元範の最期を『備中兵乱記』で確認しよう。
扨、元範は太刀を抜きから/\と打笑い、只今伊勢の坊が事をちんじ、松山へ退くと云へ共、爰に残て候也。我と思はん人々は最後の働き見よやと云へば、吾先にと進み寄る。手本に進む兵を一人切伏せ、三人に手を負はせ、其透間に腹切らんと見廻す所を、遠矢に射ける鋒矢、咽輪の外れに箟深に立て伏す所を、備後の住人東江平内首を掻落す。痛ましき哉。
新見市上熊谷に「潮城主多治部雅楽頭景治碑」がある。先ほどの説明板で毛利軍の追っ手として登場した武将である。
多治部氏は室町幕府奉公衆を務めるなど、新見氏と並ぶ有力国衆であった。近くの塩城(しおぎ)山に潮(うしお)城を築いていた。地元の真福寺にある位牌から、文禄四年(1595)三月十五日に亡くなったことが分かっている。三村元範の死から二十年ほど後のことで、新見荘とか国衆とか中世的なものが消え失せようとしていた。戦国の動乱は社会の有り様を大きく変化させたのである。
懸命に戦い抜いて気が付けば、世の中が変わっていた。コロナ戦国に生きる私たちもまた、そうなのかもしれない。景治の晩年、文禄の頃、この地域は毛利氏の領分で、その支配は盤石かに見えた。数年後の関が原により、さらに大きな変化を迎えると誰が想像できたであろうか。あたりを見回すと新見氏も三村氏も、そして毛利氏さえも消え失せていたのである。