新型コロナウイルス蔓延で1年先になったオリンピックでさえ開催できるのか不透明な状況だ。今秋の第39回蒜山高原マラソン全国大会の案内が来ないと思っていたら、案の定、中止が発表された。この先、予想していたことがどれだけ外れても大して驚かなくなるだろう。「コロナだから」と言われたら何でも納得してしまいそうだ。
VUCA(ブーカ)の時代になったとは、コロナ前から言われていた。Volatility(変動)、Uncertainly(不確実)、Complexity(複雑)、Ambiguity(曖昧)の頭文字である。まさに現在を的確に表現する言葉だ。明日は我が身かと思わせるニュースが連日報道されている。今日一日の無事に感謝し、明日の平穏を祈らずにはいられない。
今から百年前のことである。第一次世界大戦の記憶も生々しい1920年(大正9年)は、スペイン風邪パンデミックのさなかであった。そんな折、百年後つまり2020年の日本を予想しようという企画を雑誌『日本及び日本人』が行った。それを復刻した1984年発行『今は昔の今なりや-大正が予測した百年後-』(竹内書店新社)を入手した当時、私は2020年が遠い未来、サンダーバードのような世界にしか思えなかった。いま「ついに来たか」と、かつての未来に身を置いていることに感慨ひとしおである。
大正時代のエリートの予想はさまざまで面白い。今のZOOMに相当する「対面電話」は大当たりだが、「日本医術の大進歩 義首の発明」はほとんど意味不明だ。第一次世界大戦の影響で義足が発達したことからの着想だろう。
文豪として知られる菊池寛ならば、豊かな想像力を駆使してドキドキするような予想をするのかと思ったら、次のように書いている。
自分が生きていそうにもない百年後のことなどは、考えてみたことがありません。
それを言っちゃあおしめえよ。誰だってそうですから。考えてみたこともないことを表現するのが、小説家のお仕事じゃないんですかね。そうツッコんだら、続けてこのように書いていた。
しかし、人間がこれからさき、だんだん幸福になってゆくかどうか、大いに疑問だろうと思います。
さすがは文豪。おっしゃるとおりでございます。右肩上がりでは決してないのが現実ですよね。こんな菊池先生よりも具体的に予想しているのは、高見之通(たかみゆきみち)という富山県選出の衆議院議員である。読んでみよう。
維新以来五十三年たつが、その間のもっとも大なる変化としてあぐべきものは、政治においては憲法の制定、物質においては蒸気力の応用であろう。この二つのものは、ともに外国から輸入されたものであるが、外国においても、五十年間における過去を顧みては、まず以上のごときものをさすほかになかろう。そこで、欧州戦争が非常な変化を世間に与えたが、そのうち、とりわけて目立つものは飛行機であろう。これが向後十年または二十年間に非常な発達をして、地球をますます小さくするであろう。そのほかに、もう一つ科学の方面に発達をして、世界に種々の変化を与えるものは電気であろうと思う。この二者が向後二十年または三十年、ますます大切な役目をなすであろう。河川の落差を利用して水力電気を発見した。しかし、海岸に打ち寄する波の働きから水力電気を考えることは不可能ではなかろう。かような方面まで電力を引き出す研究がとどくと、世界の富の上に非常な影響を来たすことであろうと思う。
国際連盟の力がいかに強くとも、向後二十年を出でずしてまた戦争がおこるであろう。これについては、自分は相当の理由を持っているが、それは、いま言うところでないから言わぬ。
これが百年前の文章であろうか。第二次世界大戦がこのように早くから予見されていたとは、恐ろしいくらいだ。電気エネルギーは現代社会を支えていると言っても過言ではなかろう。波力発電もかなり実用化されている。そして、地球を小さくしたのは、まさに飛行機だった。
本日は、我が国の初期航空史に特筆すべき出来事を現地からレポートすることとしよう。
鳥取県東伯郡琴浦町八橋に「酒井片桐飛行殉難碑」がある。よく見ると飛行機が機首を下にしているではないか。ほぼ実機大だそうだ。
原爆、そして終戦の夏が来るたびに、我が国はどこで道を間違えたのか、と気になっていた。太平洋戦争は日中戦争、日中戦争は満州事変と、戦争の原因は戦争である。すべてまとめて十五年戦争と呼ぶが、やはり昭和六年の満州事変がすべての始まり、つまり、踏み越えてはならない一線だったのではなかろうか。
対外的にはまぎれもない侵略行為、対内的にはマスメディアによる戦争賛美、もはや引き返すことなどできないし考えもしなかった。軍は世論の後押しを受けて前へ前へと進んだのである。昭和7年3月1日に中華民国から「自発的に」満州国が独立した。満州に利害関係が深い我が国は即時承認すればよさそうだが、当時の犬養毅首相は慎重だった。九か国条約の次の条文に合致しないと考えたのである。
第1条(2)支那カ自ラ有力且安固ナル政府ヲ確立維持スル爲最完全ニシテ且最障礙ナキ機會ヲ之ニ供與スルコト
まったくその通り。満州国を承認することは中華民国にとって「障礙」に他ならないからだ。ところが五・一五事件で犬養首相が暗殺された後、6月14日には衆議院が全会一致で「政府ハ速ニ満州国ヲ承認ス可シ」と決議する。そして9月15日、大日本帝国は満州国を承認し友好関係を結ぶのである。
この一大慶事を新聞社は競って報道した。このとき朝日と毎日は空中戦を繰り広げ、最新鋭の毎日機が朝鮮半島経由で帰国するのに対して、性能に劣る朝日機は日本海横断を決行することとしたのである。その途上で発生した悲劇については、碑文を読むこととしよう。
昭和七年九月十五日新京に於て日満議定書調印され、朝日新聞社は此調印式の写真を迅速空輸の為めブスモス機を特派し此日一等飛行機操縦士酒井憲次郎操縦航空機関士片桐庄平同乗、午前十時十分新京発直線飛行を以て勇敢なる最初の日本海横断を決行せり、然るに午後二時廿八分清津、同六時四十分隠岐島通過の後の難航に陥り機は一旦陸岸に達し山岳地帯に迫りしも雲雨益(ますます)晦冥(かいめい)如何ともする能はず更に海上に転回して機を窺ひしも風波弥(いよいよ)険悪、遂に操縦の自由を失ひ壮烈職に殉ずるに至れり、酒井君は一九二八年度のハーモントロフィーを贈られたる有数の熟練家にして片桐君は大正十四年我社の欧州訪問大飛行に参加せる四勇士の一人たり、両者を以てして此不幸に会す、当時の難航察すべく遺烈炳(へい)として永く世に照耀するに足らん、茲に碑を建て両君の功績を述べて以て不朽に伝ふと云爾(しかいふ)
昭和八年九月十五日 朝日新聞社
当時の朝日新聞には「日満の歴史的調印終る」「敢然満洲國承認!」「両全権議定書に署名」「善隣の國交こゝに開く」と見出しがあり、議定書が日本語と漢文で掲載されている。その冒頭には、次のように記されている。
日本國ハ滿洲國ガ其ノ住民ノ意思ニ基キテ自由ニ成立シ獨立ノ一國家ヲ成スニ至リタル事實ヲ確認シタルニ因リ
議定書がことさらに強調するのは、満州国の独立が住民の自由意思に基づいていることだ。実態はどうあれ、もはやそのストーリーしか残されていなかった。これを報道する新聞各社は諸手を挙げてポピュリズムに徹し、批判的精神をとうに失っていた。
大正九年の百年後を生きる日本。私たちはこの百年で何を学んだのだろうか。ポピュリズムが戦争継続を支え、昭和20年の悲劇を招いたのである。今日8月6日は広島に原爆が投下されてから75年。悲惨な被害はもちろんのこと、戦争を推進したのは軍部だけでなく、戦果を期待する国民であったことも忘れてはならない。
『今は昔の今なりや-大正が予測した百年後-』には、文豪の島崎藤村が次のように記している。
もう百年もたちましたら、私たちが今日まで苦しんできたことで何一つとして、むだになったもののなかったことを、積極的に証してくれるような時代も来るだろうと思います。
過去に学んで新しい時代を築いているだろう、と予想している。「もちろんですとも」と、私たちは藤村のメッセージに胸を張って答えるだけの自信を持ち合わせているだろうか。今からでも、遅いということは決してないはずだ。