2010年に南米チリの鉱山で落盤事故が発生したが、69日後に33名全員が救出されるという奇跡があった。仲間たちの名簿を作り、18日目に生存が確認されるまではわずかしかない食料を配給で分け合ってしのいだという。
我が国でも大正15年に現在の福島県下郷町のトンネル工事で落盤事故が発生したが、8日後に11名全員が救出されるという奇跡があった。むしろやわらじなどを食べ、岩の間を流れるわき水でのどを潤し、励まし合いながら助けを待ったのだという。
いや、もっと昔、奈良時代に現在の岡山県北東部の官営鉄山で落盤事故が発生し男一人が取り残されたが、無事に生還したという伝説がある。日数は7日後とも49日後ともいう。
美作市上山(段)に「慶長鉱山跡」がある。
どこまで続くのか、坑夫たちの労苦のあとを見ることができる。どのような鉱山なのか。英田町史第二集『英田町の地区誌』には、次のように紹介されている。
故事に鉱口塞り神徳により助かったといわれる鉱山。孝謙天皇(749年)のころに開かれた銅山。慶長年間に最も発掘されたので慶長鉱山という。鉱夫の屋敷や畑の跡がみられ、当時は相当の人口があったと想像される。また寺跡もあり、廃寺の折、お経を埋めた経塚の地名も残っている。その後、細々と掘られていたが、戦後廃鉱となった。
地理院地図に示された道はずいぶん荒れているが、道沿いに平坦地がいくつもあり、職住近接のまちづくりが行われていたことが分かる。ここでいう故事とは『日本国現報善悪霊異記』通称『日本霊異記』に掲載された説話である。上記説明に「鉱口塞り神徳により助かった」とあるから、落盤事故から生還した話に違いない。下巻第十三の説話の冒頭を読んでみよう。
法花経を写さむとして願を建てたる人 日を断つ暗き穴に願の力を頼みて命を全くすること得る縁(ことのもと) 第十三
美作国英多郡の部内に、官(おほやけ)の鉄(くろがね)を取る山有り。帝姫阿陪天皇の御代に、其の国司役夫十人を召発(め)して、鉄の山に入らしむ。穴に入りて鉄を堀取る。時に山の穴の口、忽然(たちまち)に崩れ塞(ふさが)り動く。役夫驚き恐りて穴より競ひ出づ。九人僅(わずか)に出でて一人後れて出づるひと有り。彼(そ)の穴の口塞り合ひて留(とどま)る。国司上下、圧されて死にたりと思ふ。故に惆悵(うれ)ふ。妻子哭き愁へて、観音の像を図絵(えが)き、経を写し、福(さきはひ)の力を追贈(おひおく)りて、七々日(なななぬか)を逕(ふ)ること已に訖(をは)る。
美作国英多郡(現在の美作市)に官営鉄山があった。孝謙天皇の御代、国司が十人を坑夫として徴発した。穴に入って採掘していたところ、突然、入口付近で落盤が発生した。驚いた坑夫九人はやっとのことで脱出したが、一人が逃げ遅れ入口が塞がってしまった。国司も同僚もみな、男が岩に押しつぶされて死んだと思い、嘆き悲しんだ。妻子もまた嘆き悲しみ、観音菩薩の絵を描き、写経し、冥福を祈って四十九日を済ませたのであった。ちなみに「七々日」は「七日」と記されている場合もある。七日のほうが現実的かもしれない。
死んだと思われた男だったが実は助かっており、「法華経の写経を成し遂げる願掛けをしているので生かしてください」と暗闇の中で祈ったところ、天井に少し隙間ができた。そこから観音様の化身が入ってきて「あなたの妻子が私を供養し、救ってほしいと願っているので来たぞ」と言って出で行くと、穴はもっと大きくなった。男は大声を出して通りがかった山人に助けを求め引きあげてもらった。これを聞いた国司は僧に法華経を写させ観音菩薩を供養した。この奇跡の物語は法華経と観音様のおかげである。
近くに岩で塞がったような穴があるので、物語の舞台はこちらなのかもしれない。ただし、鉱山の場所は旧英田郡のどことも記されていないので、本当にこの慶長鉱山なのかは分からない。津山郷土博物館の博物館だよりNo.25(2000.1)所載の湊哲夫「美作国英多郡の鉄山について」では、美作市川上にあった金谷鉱山ではないかと推測している。
しかし『英田町の地区誌』も負けてはいない。地域の鎮守上山神社のご神体について、写真付きで次のように紹介している。
上山神社の御神体は鏡、勾玉とこの神石をお祀りしてある。日本霊異記に、段の鉱山の故事として奇蹟的に助かった役夫が奉納したものと伝えられている。
写真にあるのは鉾のような形状の石である。慶長鉱山に有利な物証とまでは言えないが、そう信じられてきたという事実はある。そして、男のように落盤事故に遭遇したが無事に生還できたという事実も確かにあったのだろう。しかし実際には亡くなった坑夫のほうが、はるかに多かったに違いない。だからこそ奇跡の物語として語られてきたのだ。やはり、南無妙法蓮華経、南無観世音菩薩、である。