ケーキを半分こしようとすると二人の神経戦が始まるが、トラブルを回避するには切る人と選ぶ人を分ければよい。政治学では権力分立、数学ではケーキ分割問題とか言うらしい。とにかく半分こすると言っても、納得のいくようにやらないとトラブルの種になる。
ケーキは食べてしまえばお終いだが、土地の境界は、証拠を明確に残しておくことが肝要だ。鎌倉時代の土地争いで当事者が土地を折半した。その境界線は今でも確認できるのだという。
鳥取県東伯郡湯梨浜町水下(みずおち)に「紫縄手」と古絵図に記された農道がある。
どう見てもふつうの農道にしか見えないが、日本史の教科書ではおなじみの場所なのだという。土地制度の変遷で「下地中分」を学習する際に代表事例として紹介される絵図がある。東京大学史料編纂所が所蔵する「伯耆国河村郡東郷荘下地中分絵図(模写本)」である。
この絵図では所領の境界線が朱線で示され、線を挟んで「領家分」「地頭分」と明記されている。土地を分割し相互に干渉しないようにすることで紛争を解決したのである。写真では右が地頭分、左が領家分となる。
絵図にはいくつかの朱線が引かれている。ここ紫縄手には表示も説明板もないが、別の場所では絵図の写真付きで解説されている。行ってみよう。
湯梨浜町野花(のきょう)と引地(ひきじ)の境界線が中分境界とされている。
写真の右側が領家分、左側が地頭分である。東郷湖の南端と正面の山を結ぶ線で分けられたのだろう。説明板を読んでみよう。
伯耆国河村郡東郷荘下地中分絵図(ほうきのくにかわむらごおりとうごうのしょうしたじちゅうぶんえず)
この絵図は、今から約七五〇年前の正嘉二年(一二五八年)、東郷池周辺に成立していた中世荘園「伯耆国東郷荘」の領有権をめぐって対立していた領家(京都松尾神社)と地頭(東郷氏)が、支配地域を明確にするため作成したものである。
「下地」とは田畑・山林・原野・河川など地域のなかで収益の対象となる土地のことで、これを荘園領主と地頭との間で分割し、それぞれの領分については互いに完全支配を認め合うのが下地中分である。
絵図の裏書によれば、下地中分は道路のあるところは道路を堺とし、堺となるもののないところは、絵図上に朱線を引き、その現地に両者が寄り合って堀を通したとされる。荘地は池の南側、池の西側の伯井田、西北の小垣、東北の馬野の四つの地域によって構成されており、そのそれぞれが朱線によって二分割されている。朱線の両脇には、鎌倉幕府で執権を務めていた北條長時とその補佐役(連書)である北條政村の花押が据えられ、領家と地頭の両者が、幕府の法廷でその支配地を折半することで和解し、下地中分を行ったことを示している。
なお、画面を二分する中央の朱線がちょうど現在地にあたる。
この絵図は荘園の盛衰を示す第一級の歴史資料として、日本史の教科書にもたびたび取り上げられている。
湯梨浜町教育委員会
執権の補佐役は「連書」ではなく「連署」という。北条長時は小栗旬演じる義時の孫で第六代執権であり、北条政村は義時の子でのちに第七代執権となる有力者である。二人は甥と叔父の関係である。大河『鎌倉殿の13人』で土地争いを評議していた宿老たちの姿が思い浮かぶ。評議結果を執権が決裁し、連署とともに署名したのだろう。
争っていたのは、お酒の神様として知られる松尾大社とその荘園の地頭であった東郷氏である。絵図裏書には「正嘉弐年(1258)十一月 日」という年月と「沙弥寂」「散位政久」という名前が記されている。名前は紛争当事者の使者であり、沙弥寂が松尾社側、散位政久が地頭側だという。
その後、鎌倉幕府が滅亡すると後ろ盾を失った東郷氏は衰退し、代わって山名氏が勢力を強めていく。裏書には貞和二年(1346)と元和六年(1620)という年号もある。松尾大社がこの絵図を根拠に土地の権利を主張したと考えられている。
混沌としたイメージの中世。一所懸命の御家人を守るのが幕府の役目。それを表す絵図が今日に残され、絵図をもとにフィールドワークができる。なんと贅沢な中世探訪だろうか。風景も変わらないが、「分ける」という行為の難しさも相変わらずだ。やはり人間だもの。