大切なものを埋納した遺跡がある。有名でしかも謎なのは「銅鐸」である。経典を埋納したのは「経塚」である。生まれた子の成長を願って胎盤を埋納したのが「胞衣塚」である。他にも、土をつき固めた杵を埋納した「杵那築森」や聖武天皇が剃髪した際の髪をや衣服を収めた「御髪塔」をレポートしたことがある。本日の史跡は何を埋納した場所なのか。
井原市西江原町に鎮座する甲山八幡宮の背後に121mの「甲山」がある。
甲山「かぶとやま」と呼ばれる山は全国各地にあるが、いずれも兜を伏せたように見えることに由来しているのだろう。以前にレポートした「金甲山」も、やはり兜のように見える。しかも坂上田村麻呂が戦勝祈願のために兜を埋納したとの伝説が伝わる。ここ井原の甲山にはどのような由来があるのだろうか。社前の説明板を読んでみよう。
史跡 甲山
太古神功皇后が三韓を親征され、凱旋の途中この山に玉歩を運ばれ、中国地方の平和を祈念するため、宝の兜を頂上にうめられたと謂う。里人は、この地に瑞垣を繞らし、この山を清浄な霊山として崇敬するようになり、山の名称も、この時から甲山と呼ぶようになったと言い伝えられている。また一説には、那須小太郎宗晴が祖命をうけ、武運長久を祈るため、与一が屋島の戦功を挙げた際、着用していた甲冑を頂上に埋納したとも言われている。山麓にはかつて、竪穴式石室が発見され、中から刀、鉄鏃馬具等が発掘されたのである。今は石室も破壊され、そのあとを止めないが、甲山古墳として、文化庁の指定をうけ、広く知られるところとなっているのである。
平成二十年三月吉日
西江原史跡顕彰会
甲山古墳については、山麓にかつて存在し、今は跡を留めないものの、文化庁の指定を受けていると記されている。別の情報源では、山頂に存在する円墳で直径30m、墳丘高5mを測り、市内第2位の規模を誇るという。確かに頂上に墳丘のような高まりがあるが、正直、よく分からない。
山頂には兜か甲冑が埋納されていると伝えられ、それを行ったのは、三韓征伐から凱旋した神功皇后だとも、扇の的で知られる那須与一の弟小太郎宗晴だとも言われいる。実際には、山容から「甲山」の名称が生まれ、その名から甲の埋納伝説が生まれたのだろう。
神功皇后による兜埋納は、西宮市甲山町の「甲山」や神戸市須磨区西須磨の「鉢伏山」にも伝えられている。皇后はいったい幾つの兜を所持していたのだろうか。戦いを終えて平和になり、もはや武具は不要じゃ、と人々に知らしめるため、各地で埋納の儀式を催したのかもしれない。
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