JAXAが月探査計画に参加する宇宙飛行士の募集を始めるそうだ。若田光一さんが「多くの若い人に仲間になってもらい、新しい道を切り開いてほしい」と呼びかけている。日本人による月探査は、かぐや姫以来誰もなし得なかった偉業である。月への新たな道が期待される。
僕の後ろに道はできる、と高村光太郎が詠み、君が歩けばそこに必ず道はできる、と永井龍雲は歌った。ならば後醍醐天皇が歩けばどうなるのか。そこに必ず伝説が生まれる。
美作市楢原中に岡山県の郷土記念物「笠懸の森」がある。昭和48年、県下で最初に指定された三つの郷土記念物の一つである。
側の道路は旧出雲街道。ということは後醍醐天皇が隠岐へと御遷幸になった道筋ということだ。郷土記念物に指定されるのは、美しさのみならず、何らかの由緒ある自然物である。この森は天皇とどのような縁があるのだろうか。
石碑には「後醍醐天皇御駐輦記念」と刻まれている。駐輦とは「天子が行幸の途中で車を止めること」であるが、後醍醐天皇の場合は島流しとなって移送されていたに過ぎない。しかし、そんな突き放した物言いはせず、「御遷幸」などと敬意を込めて呼ぶこととなっている。裏側の碑文を読んでみよう。
後醍醐天皇元弘二年三月十七日隠岐に御遷幸の途次、この地に御駐休遊され、時に警護の武士笠懸の武伎を挙行し天覧に供し奉りし聖地なり。茲二会員一同相計り昭和五十六年三月十七日御駐輦六百五十年記念祭典を盛大に相営み往古を偲び奉る
維時昭和五十七年三月吉日
美作郷土史蹟調査研究会建之
笠懸は流鏑馬のように疾走する馬上から的を狙う武技だが、笠懸のほうが的の配置が複雑で実戦的なのだそうだ。浅間大社だったか、私は一度だけ流鏑馬神事を見たことがある。その迫力は見る者を圧倒し、射抜かれて割れ落ちる的が一帯を清らかにする。失意の天皇を慰めるには最適の余興であったろう。説明板にはさらに詳しいことが記されている。
笠懸の森 由来
後醍醐天皇御歌。
よそにのみ思ひそやりしおもひきや民のかまどをかくて見むとは
元弘二年(一三三二)北条高時が、後醍醐天皇を隠岐島にお遷しするため、京都六波羅より五百余騎を率いて警護のために従った。
出発後、十日で杉坂峠を越えて美作路へ、一行は田原、江見、南海を経て、楢原上、神宿から、ここ火の神に到着したのが三月十七日の夕方でした。この日は難所の多い行程であったため、天皇の疲労も大きく、その上梶並川が雪解けで水かさが増し流れが激しく、公卿や武士達五百人が徒歩で川を渡ることができなかった。そこで一応この地で休むことになり、その間に川を渡る準備をしながら天皇のご快復を待つことになった。
この間、警護の武士達は「笠懸け」の武技を行い、天皇のお心を慰めたという。尚、当時からこの場所は椋の木が茂り、森のようになっていたらしく、以後ここを笠懸の森と呼ぶようになったという。ちなみに笠懸けとは、木に笠をかけて馬上の武士が駆けながら弓で笠を射る武技の一種で、鎌倉時代以後はもっぱら武士の遊技となった。また、最初の御歌は、天皇がこの地で休息されたとき、民家のかまどの煙が軒のつまより立ちのぼる様を近々とご覧になって、詠まれたものと伝えられている。
民のかまどなら仁徳天皇の故事で知ってはいたが、思いもかけずこうして直接見ることになろうとは。自らの境遇を悲しんでいるような、それでいて好奇心が垣間見えるような名歌である。播美国境の杉坂峠については、以前にレポートしたことがある。杉坂峠からのルートが詳しく示され、ここに到着したのは3月17日だという。
出典は何だろうか。よくあるのは『太平記』である。その巻第四「備後三郎高徳事付呉越軍事」には、次のように記されている。
道もなき山の雲を凌ぎて杉坂へ着たりければ、主上早や院庄へ入せ給ぬと申ける
児島高徳が後醍醐天皇を救おうと杉坂峠にやって来ると、天皇はすでに院庄(現在の津山市)に入ったというのだ。この間の地名は一切登場しないし、日時も示されていない。そこで確かめたのが、大根の水増しと記憶する四鏡の一つ『増鏡』である。その第十九「久米のさら山」に、次のような記述が見つかった。
十七日、美作の国におはしまし着きぬ。御心地なやましくて、この国に、二三日やすらはせ給ふほど、かりそめの御やどりなれば、もの深からで、候ふかぎりの武士ども、おのづからけ近く見奉るを、あはれにめでたしと思ひ聞ゆ。君も思しつゞくる事ありて、
あはれとは汝も見るらむ、我が民と思ふこゝろは今もかはらず。
おはしますに続きたる軒のつまより、煙の立ち来れば、「いほりにたける」とうち誦(ずん)ぜさせ給へるも艶なり。
よそにのみおもひぞやりし、思ひきや民の竈(かまど)をかくて見むとは。
元弘二年三月十七日、後醍醐天皇一行は美作国にお着きなった。ご気分がすぐれず、この国で二三日お休みになっていた時のことである。旅における仮の宿のことゆえ、御所のような奥深さはない。お供の武士は帝のお姿に間近で接し「なんと素晴らしい方だろう」と感じた。帝もまた思われることがあって、次のように詠んだ。
「汝らは流される私を気の毒にと思っていることだろう。それでも私は、汝らはもとより我が民をいつくしむ気持ちにいささかも変わりはないのだ。」
仮宿につづきく民家の軒の端からかまどの煙が立ち上っている。 帝は源氏須磨巻の「山賤(やまがつ)の庵に焚けるしばしばも言問ひ来なむ恋ふる里人」を口ずさまれ、次のようにお詠みになったのもきらきらしいことであった。
「民のかまどなら仁徳天皇の故事で知ってはいたが、思いもかけずこうして直接見ることになろうとは。」
このように配流の旅のようすが王朝絵巻のように描かれている。3月17日であることは分かったが、美作国のどこなのかは示されていない。この記事に続いて、21日の「雲清寺」でのエピソードが記されていることから、仮宿は現在の勝央町か美作市のどこかだと考えられる。
大正十二年に編纂された『英田郡誌』の第十三章名勝旧跡第一節名勝には、次のように記されている。今の美作市域はかつて英田郡であった。
「笠懸森」
楢原村大字楢原中第二十四号国道に沿ひて梶並川の東岸にあり榎椋等の老幹数株枝状蜿蜒中天を覆ふ、往昔元弘二年後醍醐天皇御西狩の時鳳輦を此地に駐め給ひ衛士皆笠を脱して樹枝に懸け憩ひしを以て此名ありと云ふ。
笠懸の森という名の由来は、武技笠懸ではなく笠を掛け置いたからだというのだ。旅の途中での休憩なら、こちらの方が現実的かもしれない。
「笠かけの森」と刻まれた重厚な石碑もあり、側面に歌が刻まれている。「元義」とあるから、幕末の吟遊歌人平賀元義である。歌集で探すと同じ歌が見つかった。
同国勝田の郡豊国の郷笠掛けの森にて
夏の日は道行く人も休(いこ)ふなり木陰すゞしき笠掛の森
勝田郡豊国郷と英田郡楢原郷は梶並川を挟んで隣接しているので、元義の笠掛の森がまったく別の場所とは思えない。夏の暑い日に出雲街道を旅する人が木陰で休むのに笠掛の森はちょうどよい、と詠っている。後醍醐帝にお見せした笠懸の武技は念頭にないようだ。
後醍醐天皇の遷幸ルートは確かにこの道沿いだったろう。しかし、帝が笠懸の森で休んだのか、笠懸を楽しんでご覧になったのか、確証はないようだ。後醍醐天皇が歩けば、いや鳳輦が行けば伝説が生まれる。それは数百年の時を経てもなお、私たちを王朝絵巻に誘うファンタジーであった。