「略奪愛」というと週刊誌の見出しのようだが、妻を奪ったのがそこらへんの芸能人ではなくて、天皇だから単なるスキャンダルに終わらなかった。妻を奪われた者は外国勢力と結び、武力で決着をつけようとした。
赤磐市穂崎(一部は和田)に「両宮山古墳」がある。国の史跡に指定されている。周濠が美しい五世紀後半の前方後円墳である。前方部には両宮神社がある。
墳丘の全長は206mで備前では最大、県内では造山古墳、作山古墳に次いで3番目、全国では39番目の規模だという。墳丘の平面形は仁徳天皇陵の5分の2の大きさであり、中央政府との結びつきが考えられる。しかし、葺石と埴輪が見つかっておらず、築造が最終段階で中止されたことも考えられる。
いったいどのような人物が葬られているのだろうか。赤磐市観光協会の説明板には、興味深い言い伝えが記されている。
両宮山古墳と稚媛(わかひめ)伝説
今からおよそ千五百年前、このあたりは吉備上道臣(きびのかみつみちのおみ)田狭(たさ)という豪族が支配し、大和朝廷に並ぶほどの強い勢力を誇っていました。両宮山古墳は、その田狭の墓ではないかと言い伝えられています。
これに続いて稚媛をめぐる伝説が紹介されているのだが、ここは『日本書紀』で読むことにしよう。雄略天皇七年是歳条の引用である。
是の歳、吉備上道臣田狭、殿(おほとの)の側に侍りて、盛に稚媛を朋友(とも)に称(ほ)めて曰く、天下の麗人(かほよきひと)、吾が婦に若くは莫し。茂矣綽矣(こまやかにさわやかにして)、諸好(もろもろのかほ)備はれり。曄矣温矣(あからかににこやかに)、種相(くさくさのかたち)足れり。鉛花(いろ)も御(つくろ)はず、蘭沢(か)も加(そ)ふること無し。曠世(ひさしきよ)にも儔罕(たぐひまれ)ならむ。当時(ただいま)独り秀れたる者なりといふ。天皇耳を傾けて遙に聞しめして、心に悦びたまふ。便ち自ら稚媛を求めて女御(みめ)と為(し)たまはむと欲す。田狭を拜(ことよさ)せて、任那国司(みまなのくにのみこともち)に為し、俄にして天皇稚媛を幸(め)しつ。
雄略天皇七年(463年)、吉備の豪族田狭は、天皇のそばで自分の妻の稚媛を仲間に自慢していた。「うちの嫁さん以上に可愛い女は世の中におらん。細やかで爽やかで、ええとこばっかりじゃし、明るくてにこやかで、どっから見てもきれいじゃ。お化粧も香水もいらん。歴史上でも一番美しい女じゃ。」天皇は遠くからこれを聞いて下心を抱いた。稚媛を奪って妃にしようと思ったのだ。天皇は田狭に命じて任那国司(朝鮮南部の駐在官)となし、そのすきに稚媛を妃とした。
そりゃいくらなんでも怒るわな。鼻の下が伸びきった田狭にすきがあるとはいえ、非は天皇にある。田狭は新羅と結んで天皇に対抗しようとした。さあ、どうなるのか。続きは赤磐市観光協会の説明板が分かりやすいので、そちらを読もう。
怒った天皇は田狭の子である弟君(おとぎみ)に父を討つことを命じましたが、弟君は新羅へは向かわず田狭の軍と結ぼうとしました。これを知った弟君の妻樟姫は、夫に謀反の心があることを知り、弟君を殺してしまいました。
自慢の美しい妻を奪われ、父のよき理解者である我が子も殺された。気の毒すぎる田狭の名が、その後の歴史に登場することはなかった。では、稚媛はどうなったのか。『日本書紀』巻第十五清寧天皇即位前記条を読もう。
廿三年八月、大泊瀬(おほはつせ)天皇崩(かむあが)りましぬ。吉備稚媛陰(ひそか)に幼子(わかこ)星川皇子に謂(かた)りて曰く、欲登天下之位(たかみくらしらむとならば)、先づ大蔵の官を取れ。長子(このかみ)磐城(いはき)皇子、母夫人(いろはのきさき)の其の幼子に教ふる語を聞きて曰く、皇太子は、是れ我が弟なりと雖も、安(いづくに)ぞ欺(あざむ)くべけむや、不可為也(しかすべからず)。星川皇子聴かずして、輙(すなは)ち母夫人の意に随ひて、遂に大蔵の官を取り、外門(ほかと)を鏁閉(さしかた)め、式(も)て難(わざはひ)に備ふ。権勢(いきほひ)の自由(ほしきまま)に官物(おほやけもの)を費用(つひや)す。是に於て大伴室屋(おほとものむろや)大連、東漢掬(やまとのあやのつか)直に言ひて曰く、大泊瀬天皇の遺詔(のちのみこと)、今将に至らむとす。宜しく遺詔に従ひて皇太子に奉(つか)へまつるべし。乃ち軍士(いくさ)を発(おこ)し大蔵を囲繞(かこ)む。外より拒(ふせ)き閇(かた)めて、火を縦(つ)けて燔(や)き殺しぬ。是の時に吉備稚媛、磐城皇子の異父の兄兄君(えきみ)、城丘前来目(きのをかさきのくめ)〔名を闕(か)けり。〕星川皇子に随ひて燔き殺されぬ。
雄略天皇二十三年八月、天皇は崩御された。妃の稚媛はひそかに我が子星川皇子に「天皇になりたいなら、大蔵省を押さえなさい。」と言った。長男の磐城皇子は「白髪皇子(しらかのみこ=後の清寧天皇)はたとえ私の弟とはいえ、たやすくだますことはできないでしょう。事を起こしてはなりませぬ。」と言った。星川皇子は言うことを聞かず、母の意に従って大蔵省を接収し、門を固く閉ざして戦いに備えた。勢いのままに公の財物を横領した。ここに至って大連の大伴室屋は、渡来系の都加使主(つかのおみ)に対し「今まさに雄略天皇の遺命のとおりになろうとしている。遺命に従い皇太子である白髪皇子にお仕えするべきだ」と言った。すぐに武力鎮圧の方針を示し、大蔵省を囲んで出られないようにし、火を放って焼き殺した。この時、母の稚媛、磐城皇子の異父兄である兄君、城丘前来目(名は不詳)は星川皇子とともに焼き殺された。
偉大なカリスマが亡くなった直後、人心は動揺し政権は不安定になっている。権力の空白期に一気に政府機関を掌握し、正統性をアピールする。吉備稚媛の戦略は、そんなセオリーどおりだ。地方豪族の血筋とはいえ、天皇が奪ってまで愛情をかけた女性の皇子である。天皇にふさわしくないはずがない。
これに危機感を感じたのが旧来からの勢力である大伴氏や、すでに政権内に確固たる地位を占めていた渡来人であった。新興勢力に庇を貸して母屋を取られてはならぬと、機敏に対応して鎮圧に成功した。
あと一歩のところで吉備氏政権は実現しなかった。田狭の反抗や星川皇子のクーデターは「吉備氏叛乱伝承」として知られ、吉備氏の勢力の大きさを語り伝えているのである。
両宮山古墳の周辺には古墳が点在しており、まとめて「西高月古墳群」という。主墳を含め6基あり、4基は前方後円墳、2基は帆立貝形古墳である。
赤磐市穂崎に「森山古墳」がある。
帆立貝式の前方後円墳で、墳丘の長さは約85m。両宮山古墳の陪塚(ばいちょう)と考えられている。
赤磐市岩田に「廻(まわ)り山古墳」がある。
墳長約65mの前方後円墳で、両宮山古墳よりも後に築造されたと考えられている。
小さな古墳を従えるかのように堂々とした両宮山古墳。この巨大墳に鎮まるのは、吉備氏叛乱伝承の主役の一人、吉備田狭だという。葺石と埴輪のないことが何らかの事件に関係するなら、被葬者が田狭である可能性は高まる。
だが、古墳の被葬者の特定は、天皇陵でさえ難しいくらいだから、両宮山古墳も真相は謎なのなろうが、この大きさが地域の誇りであることは確かだ。