「ベタ踏み坂」というのは江島大橋のことで、観光パンフレットの写真を見ると、「マジか」と驚くような急坂である。しかし、実際に走行してみるとそれほどでもないし、写真のような急坂にも見えない。写真を見返すと、遠くからズームを効かして撮影していることが分かる。坂の面白い楽しみ方だ。
本来、旅人にとって坂は楽しむどころではない難所であった。津山から出雲街道を西に向かう旅人は、内陸部でありながら、ほとんど坂に苦労することなく坪井宿まで歩くことができた。ところが宿を出ると、ついに坂に差しかかるのである。
津山市坪井下に「鶴坂」がある。驚くような急坂とはまったく違う。
それでも、ここには説明板が設置され、少々長い文章が記載されている。坂の傾斜とか勾配のような物理的なことではなく、坂にまつわる物語のような人文的な内容である。読んでみよう。
坪井の宿場を西に出ると、間もなく出雲街道は坂道となり、やがて小さな乢(峠)を越す。これが 、「久世を夜で出て目木乢越えて坪井鶴坂歌で越す」と謡われた鶴坂である。
鶴坂の名は、昔、この峠の頂上に老松があり、これに二羽の鶴が舞いおりたことに由来するという。現在は、中国自動車道が横切っているため往時の面影は偲びにくくなっているが、平坦な道の続く町内の出雲街道の中では小さいながらも唯一の峠であった。また、かつてはこの峠に至る八本の小道(大谷道・宮道・宮後道・古道・地蔵堂畝道・中縄手道・松ヶ坪坂・イモジガ峠道)が縦横に走っていたとの記録もあり、当時、この峠が地域においても交通上重要な位置を占めていたことをうかがうことができる。
坂の坪井側の上り口付近には、亀の形に刻んだ台石の上に立つ塚がある。この塚は「餝磨津斉七塚」といい、現在の久米町坪井下出身で、当時某藩のお抱え力士であったと伝えられる、太田斉七(餝磨津は力士名)の塚であると伝えられている。さらに、坂の頂上付近には、鶴亀神社という小祠がある。祠には、仇討ちに纏わる哀話があり、伝説となって今に伝えられている。
久米町教育委員会
鶴坂の名は、鶴が舞いおりたという、おめでたい故事に由来するようだ。説明文の出典である『久米町史』には、次のように記されている。
昔、此の乢の頂上に老松があって、二羽の鶴が舞いおりたので、此の乢を「鶴坂」というようになった。といゝ、又、後醍醐天皇が隠岐に御遷幸の時、此の乢の頂上に御休みになった。とも言う。
鶴が舞いおりたかどうかは確かめようがないが、後醍醐天皇が休憩されたとしても不思議ではない。しかし、天皇にはこの先、難所が待っていたのである。これが俚謡の「久世を夜で出て…」に登場する目木乢(めきだわ)である。
この俚謡は出雲街道を久世宿から東へ向かう様子を表している。目木乢は、出雲街道最大の難所四十曲峠に比べればまったく大したことはないが、水陸の要衝として賑った久世で遊んだ体にはきつかった。しかし、そんな目木乢に比べれば鶴坂は大したことはないぜ。ふふんのふ~ん♪ということだろうか。
鶴坂は中国自動車道で分断されているが、その北側に「鶴亀神社」がある。
この鶴亀神社も先ほどの俚謡に関係があるという。説明板の文字はすっかり読めなくなっているので、ここは峠の名著『おかやまの峠』(福武書店、昭和55年)の「目木乢」を読んでみよう。
「久世を夜出て目木乢越えて、坪井鶴坂歌で越す」とはこのあたりの俚謡である。歌はお伊勢参りの歌とも、また坪井の鶴坂にある鶴亀神社にまつわる悲話の歌とも伝えられる。悲話というのは、戦国のころ、三星城主後藤氏の家臣某の妹が何者かによって殺された。悲報に接した兄は時を移さず仇の後を追ったが、その途中、久世の宿において仇の噂を耳にし、急ぎ目木乢を越えて仇にめぐり逢えたものの、不幸にして坪井の鶴坂で返り討ちにあった。そこで村人達は兄妹の霊安かれと鶴亀神社を建立したという。
俚謡を仇討ちの悲話を歌っていると解釈する場合、坪井鶴坂「討たで」越す、ということになるようだ。兄の名は鶴之丞、妹の名は亀といった。殺された亀は抵抗した際に仇の耳をかみ切った。これを知った兄は耳無しの男を探していたところ、「七森神社の相撲で耳無しの男が強かった」との噂が耳に入り、久世から坪井に向かったと伝えられている。
鶴坂を坪井宿の方面に下ると「餝磨津(しかまづ)斉七塚」がある。
弘化年間に大坂相撲で活躍した力士で、姫路藩酒井公のお抱えであったという。明治5年に68歳で亡くなったことが墓碑から分かる。亀趺の上にのる立派なお墓だ。身分が高かったわけではないだろうから、よほど人徳に優れていたに違いない。
鶴坂は昔も今も交通の要衝であり、旧出雲街道、国道181号、JR姫新線、中国自動車道が通過している。このうち、旧出雲街道と中国自動車道はちょうど鶴坂で交わっている。どこにでもありそうな小さな鶴坂だが、人々の意識の中では大きな存在であったようだ。言い伝えは、坪井宿の近くだけに、旅人が語り広めたのだろう。
出雲街道の鶴坂を越える旅人は、宿で聞いた戦国悲話を思い起こしながら鶴亀神社に手を合わせたであろうが、中国自動車道を快走する自動車は坂の存在も分からずに通過する。カーオーディオから流れる心地よい音楽のせいで、陸橋となっている旧出雲街道に気付かないだろう。やはり「坪井鶴坂歌で越す」ということなのだ。