50の国・地域が批准し、核兵器禁止条約が来年1月に発効する見通しとなった。核保有国に加えて唯一の被爆国である日本も参加しない条約にどれほどの実効性があるのかは疑問だ。それでも支持する人々は「歴史上の正義に立っている」と主張している。
正義の立場になかったら不正義なのか。正義は立場によって異なるのか。価値は絶対的なのか相対的なのか。物事の理非を明らかにしようと抗争が起きやすい。そして有為な人材が失われる。明治初年に起きた徳島藩の悲劇から今年で150年となる。
洲本市山手一丁目に「お登勢の像」がある。
この元気のよさそうな娘の物語はよく知らないが、徳島藩の悲劇的な抗争「庚午事変」に巻き込まれて随分と苦労をするらしい。そばにある大きな副碑に事変の詳細が記されているので読んでみよう。
庚午事変と「お登勢」
江戸時代の淡路は、阿波の大名蜂須賀氏の領国であった。蜂須賀氏は、筆頭家老の稲田氏をはじめ家臣を洲本に派遣して、淡路を支配していた。
稲田氏は、阿波と淡路に約一四、五〇〇石という、大名並みの知行地を与えられ、多数の家臣を抱えて、淡路の最高行政職である洲本仕置や、洲本城代に度々任じられた。
その稲田氏の家臣は、陪臣(又家来)だとして蜂須賀家臣からは低く見られたが、主君、稲田氏の祖先が、蜂須賀氏草創の時から大きな功労があることや、稲田氏が大名格で公卿とも縁組みしていることなどに誇りをもっていた。
幕末の激動期になると、蜂須賀氏が幕府支持派であったのに対して、稲田氏やその家臣は、積極的に尊王攘夷運動に参加し、明治新政府の樹立に貢献した。
ところが、維新による身分制度の変革で、蜂須賀家臣が士族になったのに、稲田家臣は卒という一段低い身分に編入され、しかも僅かばかりの手当が藩から給付されることとなった。この処置に強い不満をもった稲田家臣は、三田昂馬等を中心として、稲田氏との主従関係の継続と士族への編入を再三にわたって藩に陳情。さらに、中央政府への稲田氏分藩独立運動へと発展させていった。
このような稲田家臣の動きは、蜂須賀家臣を情激させ、遂に大村純安・平瀬伊右衛門・多田禎吾等洲本在住の過激派が決起することとなった。
明治三年(一八七〇)五月十三日早朝、蜂須賀家臣に率いられた八○○名余りの兵が、銃のほか大砲までも引き出して、洲本市中の稲田氏の邸宅や学問所である益習館、稲田家臣の屋敷を次々襲い、殺傷・捕縛連行・放火した。稲田側は無抵抗であったこともあり、自決二名・即死十五名・重傷六名・軽傷十四名、焼失家屋多数という大きな被害を被った。この年が「かのえうま」に当たることから、事件を庚午事変と呼んでいる。
明治政府の下した処置は厳しく、蜂須賀側の首謀者十名に斬罪、二十七名を伊豆諸島への流罪とし、禁固や謹慎は多数に及んだ。一方の稲田側は、当主の稲田邦植以下家臣が北海道への移住を命ぜられ、翌年荒野の広がる日高国静内へと移って行った。
この騒動の影響は大きく、洲本は一時活気を失ったほか、明治九年には淡路が徳島から分離されて、兵庫県に編入されることになった。
この庚午事変を背景として書かれた、船山馨原作の小説「お登勢」が、平成十三年NHKでテレビドラマ化され、十二回連続で放映された。
激動の時代を愛一筋に、健気に生き抜いた「お登勢」の姿が人々に感動を与え、好評を博した。
これによって洲本は、「お登勢」の町として全国に知られると共に、庚午事変が改めて注目されるようになった。
平成十四年五月十三日
お登勢の銅像建立実行委員会
碑文 淡路地方史研究会
テレビドラマは沢口靖子がお登勢を演じたようだ。お堀の向こうには淡路文化史料館があり、ちょうど今、庚午事変150年特別展「最後の侍たち~徳島藩士と稲田家臣、それぞれの正義~」を開催している。迫力ある史料と分かりやすい解説で、当事者になったかのような臨場感さえ覚える。入館時にいただけるパンフレットには展示内容が詳細に記されており、資料的価値が高い。
ゆかりの場所が市内に点在しているので訪ねてみることにしよう。
洲本市本町八丁目の専称寺に「庚午志士之碑」がある。
「従二位侯爵蜂須賀茂韶書」とあり、題字は旧藩主が揮毫している。建立は明治二十二年十二月で、碑文に「今茲己丑紀元節国家有憲法発布之慶典蒙罪名消滅之恩命」とあることから、蜂須賀側で罪を得た人々は大日本帝国憲法発布に伴い赦免されたことが分かる。
洲本市栄町三丁目の江国寺(こうこくじ)に「招魂碑」がある。先の「庚午志士之碑」が処刑者の出た本藩蜂須賀側の慰霊碑であるのに対して、こちらは被害者の出た稲田側の慰霊碑である。
「正四位勲三等巖谷修題」とあり、題字は書家の巖谷一六の揮毫である。児童文学の巖谷小波の父でもある。写真では見えない部分に碑文があり、撰文は実証史学の重野安繹(しげのやすつぐ)、書は政府特使として稲田家に北海道開拓移住の打診を行った立木兼善(たちきかねよし)である。本堂前の説明板を読んでみよう。
江国寺
淡路では数少ない臨済宗の寺院。江国寺は、蜂須賀・稲田両氏の帰依が厚く、とくに家老稲田氏の菩提寺でもある。
本堂裏の墓地には稲田氏代々の墓碑群や家臣の墓、硯に筆を立てた形の黒田泊庵(江戸末政の画家)の墓がある。
山門の西側に道路に面して立っている大きな招魂碑は、庚午事変(稲田騒動)で散った稲田家臣とその家族のために、明治二十七年に旧家臣たちが建てたものである。
稲田氏側には誇りがあった。その石高は一万四千石を超え、仙台藩の片倉氏、岡山藩の伊木氏と並んで「天下の三家老」と呼ばれる大名格であった。11代当主の敏植(としたね)は公卿の高辻家(菅原姓)から継室を迎えたが、これが家中に尊王の気風を広げる契機となる。幕末の15代植誠(たねのぶ)の頃には、藩主蜂須賀斉裕(将軍家斉の実子)に勤王を説くまでになっていた。
しかし植誠は慶応元年に急逝、11歳の邦植(くにたね)が16代当主となる。慶応四年には藩主斉裕も亡くなり、22歳の茂韶(もちあき)が14代藩主となる。激動の時代における代替わりは、双方ともに急進的な家臣を勢いづかせることになったかもしれない。
洲本市海岸通二丁目に「稲田家向屋敷跡」がある。
現在は念法眞教洲本念法寺になっている。庚午事変では、この場所が最初に占拠されたという。
洲本市山手二丁目に「龍宝院跡国瑞彦(くにたまひこ)護国神社」がある。
この場所には龍宝院というお寺があり、庚午事変では負傷者の診療所に当てられたという。その後の廃仏毀釈で廃寺となり、蜂須賀家ゆかりの国瑞彦神社が建立された。さらに戦没者も祀るようになり現在の名称となった。
洲本市栄町三丁目の江国寺の稲田家墓所に「稲田邦植の墓」がある。昭和六年に77歳で没した。
稲田主従は北海道移住を受け入れ、立藩独立を夢見ていた。北海道日高国静内(現在は新ひだか町)に初めて上陸したのは、事変の翌年5月2日のこと。それから間もない7月14日に廃藩置県が断行される。立藩の夢はついえた。8月22日には移住第2陣の人々を乗せた船が紀州周参見沖で座礁沈没、多数の犠牲者が出た。
それでも稲田主従は志を貫いてゆく。明治六年に稲田邦植が家族とともに静内に移住し同二十八年まで在住した。この間、旧家臣は稲田家再興に奔走し、同二十六年に邦植は男爵に叙せられた。稲田家屋敷には邦植の弟邦衛が長く居住し、建物は大正十五年まで姿をとどめたという。
稲田主従の北海道移住は、吉永小百合主演の映画『北の零年』でも知られるようになり、静内では今もゆかりの地を訪ねる観光客が多いようだ。旧静内町と洲本市が結んだ姉妹都市提携は、現在も新ひだか町に継承されている。
洲本市本町四丁目の厳島神社に「稲基(いなもと)神社」と「お登勢の碑」がある。
稲基神社の碑には稲田家の矢羽根紋が刻まれている。水玉と皿が置かれているので、石碑そのものが神社のようだ。説明板を読んでみよう。
稲基神社とお登勢の碑
明治三年に起こった所謂「庚午事変」により、稲田家と家臣一同が北海道静内へ開拓移住となり、稲田家の守護神「稲基神社」も北海道に移祭し今も洲本と静内で祀られている。
昭和五十一年、洲本ライオンズクラブと静内ライオンズクラブが姉妹提携を結んだのを機に新たに建立された。
「お登勢の碑」は「庚午事変」を題材にした小說「お登勢」の作者船山馨先生の揮毫によるものである。
厳島神社
庚午事変後も洲本と静内の交流は長く続けられ、稲田家の物語は小説やテレビドラマ、映画となって全国の人々に知られるようになった。明治維新という大変革の中で、稲田側の悲願であった立藩独立の夢も、蜂須賀側が守ろうとした秩序も、秋の朝霧の如く雲散霧消してしまった。それから150年。
私たちは今、双方の正義を香港の民主化運動に見ているのかもしれない。中国本国は国家安全維持法により治安維持を最優先にしており、運動家の若者は一国二制度が保障した民主主義を死守しようとしている。企業活動を円滑に進めたい香港人は激化する闘争からは距離を置いており、香港住民の立場もさまざまである。
私に言わせれば、民主主義だけは時代を越えた普遍的価値を有するのだが、分断を深めるばかりのアメリカ大統領選挙や異論を排除するスガ政治を見ていると、そんな時代もあったねと、やがては平成デモクラシーを懐かしむ未来の予感さえするのだ。