源平藤橘、我が国を代表する名族の子孫は今も各地で活躍しているのだろう。NHK『ファミリーヒストリー』では、著名人のご先祖様に歴史上のすごい人物が登場することがある。そのような家系図が残されているのかもしれない。
近世身分制社会にあっては家柄は、名誉だけではなく役職などの現実的な利益と直結していたから、現代とは比べ物にならないくらい重視された。家系図の粉飾もあったらしいから、本当のところはよく分からないし、現代社会にあっては話のネタの一つに過ぎない。
山陽新聞社『岡山県歴史人物事典』に「徳山周蔵」という人が掲載されている。「農書の著者。字は敬猛。」とある。名代官として知られる早川八郎左衛門正紀から地域の教育を託されるほどの人物で、『農業子孫養育草』を著し産業振興に努めたという。
この地域の名士徳山氏のご先祖について同『人物事典』は、次のように記している。
徳山家の旧記によると、初代将監は美作守護職の赤松氏の被官岩倉氏に属し、家老職を務めた系譜の土豪であったが、近世初頭に帰農したという(宗森英之「村方地主制と鉄山経営」)。
さあ、今日の本題に入ろう。この土豪だった中世徳山氏の居館がこれだ。
真庭市蒜山西茅部に「徳山屋敷跡」がある。蒜山ICを降りるとすぐに見える。
中世屋敷跡といえば「院庄館跡」のように土塁と堀で方形に囲まれた居館というイメージがあるが、こちらは巨大な櫓台が二つ並んでいるように見える。説明板を読んでみよう。
徳山屋敷跡
真庭市指定文化財 史跡
徳山屋敷跡は、尾根を利用して築かれた中世の居館跡である。
屋敷跡は、二本の大規模な堀切によって尾根を切断し、南北に二つの郭面を設けている。
この城の城主については、二つの説がいわれている。
一つは代々地頭職で波差利城家老にも就いた徳山氏の屋敷跡という説。もう一つは、波差利城主岩倉氏が冬季になると山頂の城から降りて、この屋敷において執政をおこなったという説である。
現在、蒜山で知られている居館跡の数少ない例であり、貴重な文化財として大切に残していきたい。
真庭市教育委員会
大胆な堀切が印象的なこの屋敷は、インターチェンジ近くにあることから分かるように、交通の要衝に位置している。即ち陰陽を連絡する「大山みち」を押さえているのだ。
真庭市蒜山中福田に「日爪堡(ひのつめほ)」がある。
城跡であれば「~城」「~砦」が通常だが、ここでは「堡」である。説明板を読んでみよう。
日爪堡
真庭市指定文化財 史跡
堡とは、とりでのこと。別名、日ノ爪城跡とも呼ぶ。旭川を望む大地の先端に築かれた中世の山城跡。城主や築城年代に関しては、不明である。
城跡は南側に広がる平地から四〇mほど高くなった所にあるため、南からの侵入は容易ではなかった。
一方、北側は台地が地続きで延びていた。そのため、延長約一〇〇mにわたって土塁、堀切を交互に三重から四重に築くなど堅固な防御施設が築かれた。
城跡の残りもよく、かつて戦乱の世が蒜山にも及んでいたことを示す貴重な資料として後世に伝えたい。
真庭市教育委員会
城主は不明とのことだが、曲輪は広大、南側は段丘崖のため急峻、北側は大規模な土塁と堀切で防御している。蒜山高原の中心部で諸将の動向に睨みを利かせているのだ。
真庭市蒜山東茅部に「粟住(あわずみ)城址」がある。
大昔は湖だったという蒜山盆地を一望できる好立地だ。日爪堡とは指呼の間と言えば言い過ぎかもしれないが、狼煙で連絡を取り合うことはできるだろう。説明板を読んでみよう。
粟住城址
真庭市指定文化財 史跡
粟住集落の東側、城山(標高六〇五m)の山頂付近には、中世の山城跡が残っている。延長三〇〇mほどにわたる大形の山城であり、山頂の郭面の間には深い堀切を、郭面の下側には堅堀を作り出している。北側には、小さ郭面を階段状に多数配置していることも、この城の特徴である。
築城の年代、城主の変遷などについては、詳しいことは不明である。
江戸時代初期の津山城造営に際して、粟住矢倉という人物がこの山から建材を持ち出したことから、粟住という地名が付いたといわれている。
真庭市教育委員会
写真は上が北側の曲輪、大堀切をはさんで下が南側の曲輪となる。これほどの規模でありながら城主が不明という謎の山城だ。
真庭市藤森と黒杭の境あたりに「飯山(いいやま)城跡」がある。標高は621m。よく手入れされているので登りやすい。
粟住城の南3.5kmに位置し、両者は言わばご近所さんである。連絡を取り合っていたのか敵対していたのか。説明板を読んでみよう。
真庭市指定史跡
飯山城跡
昭和三十四年三月十日指定
室町時代の末期元亀・天正(一五七〇~一五九〇年代)の頃、毛利氏の武将安芸盛重が居城としたと伝えられる。
飯山の北面山腹に城の段どり・空壕などが遺存している。
安芸盛重は毛利の将・杉原播磨守のことであろうと記した文献もある。
真庭市教育委員会
「安芸盛重」という表記は『作陽誌』に出てくるのだが、そのような人物はいない。安芸の毛利の有力武将杉原盛重のことと考えられている。とすれば、日爪堡も粟住城も毛利勢の城砦と見てよいかもしれない。
山頂から北麓を眺めていると、雲が薄れて白い大山が見えてきた。さすがに大山とは連絡が取れなかっただろうが、その雄大な姿に手を合わせ武運長久を祈っていたことだろう。現在の我が国は感染爆発の状況である。本日、全国で新型コロナウイルスの感染者が、初めて2万5,000人を超えたという。私たちの武運が長く久しからんことを祈るのみである。