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平清盛は反平家の動きを見せた藤原成親に向かって「恩を知らざるをば畜生とこそいへ」と言い放ち、「いかさまにも人の讒言にてぞ候ふらむ」と釈明する成親を「あなにくや、この上をば何とか陳ずべかなるぞ」と難詰した。さらに清盛は…。『平家物語』巻第二「小教訓」より
なほ腹をすゑかねて、経遠(つねとほ)、兼康(かねやす)と召す。難波の次郎、妹尾の太郎参りたり。「あの男とって、庭へ引き落せ」とのたまへども、これらさうなうもし奉らず、「小松殿の御気色(ごきしよく)、いかが候はむずるやらむ」と申しければ、入道、「よしよしおのれらは、内府(だいふ)が命(めい)をば重んじて、入道が仰せをば軽うしける、ござんなれ、この上は力及ばず」とのたまへば、これらあしかりなんとや思ひけん、立ちあがり、大納言の左右の手を取って、庭へ引き落し奉る。その時入道、心ちよげにて、「取って伏せて、をめかせよ」とぞのたまひける。二人の者ども、大納言の左右(さう)の耳に口をあてゝ、「いかさまにも御声の出づべう候」と、さゝやいて、引き伏せ奉れば、二声三声(ふたこゑみこゑ)をめかれける。
「経遠、兼康、こいつを庭へ引きずり落せ!」と難波経遠と妹尾兼康に命じたが、二人は何もせず「(成親と親しい)重盛殿はいかが思われるでしょう。」と言った。「ほお、お前らは重盛の命令を重んじて、わしの言うことは軽く扱うようだな。なら仕方あるまい。」と清盛が返すと、ヤバいと思った二人は成親の左右の手を取って庭に引きずり落した。清盛が心地よさげに「うつ伏せにして、わめかせろ。」と言うので、二人は成親の耳元に「なんとかお声をお出しください。」とささやいてねじ伏せると、成親は二三度うめき声を上げた。
難波経遠と妹尾兼康は、ともに平家の家人である。兼康については以前の記事「涙にくれて道見えず(妹尾兼康の場合)」で紹介した。本日は経遠の子孫について紹介しよう。
岡山市北区御津伊田に「殿谷城跡」があり、本丸跡に「難波十郎兵衛行豊之墓」と刻まれた石碑がある。
聞くところによれば、高松城水攻めで自害した清水宗治も、難波経遠の子孫だという。難波家抜きに岡山の歴史は語れない。殿谷城と難波行豊について調べると、江戸後期の地誌『東備郡村志』第六巻赤坂郡平岡郷伊田村に、次のような記述が見つかった。
▲殿谷城址。平家の侍難波次郎常遠・同六郎常俊が苗裔難波将監経尊より、代々此城に居る。八郎左衛門経定の世に至て、直家の為に落城し直家の家臣となる。文明の頃、難波掃部助・同十郎兵衛行豊(掃部が弟也。)同四郎左衛門同。八郎次郎と云ものあり、経定が先祖なり。其子孫民間にあつて赤松政則の判物数通所持せり。
難波行豊は文明の頃の武士のようだ。難波次郎経遠の後裔だという。どのような事績があるのか。岡山を代表する軍記物『備前軍記』巻第一「赤松政則元服事幷備前国へ打入事」には、次のように記されている。
又此時難波十郎兵衛行豊は小鴨大和守を引出して討取るべしと思ひて、十郎兵衛が兄掃部助は大和守が家来にて、此時福岡に居たりしを幸にて内通し何とぞ謀を以て小鴨を引出すべしと言送りければ、掃部助領承し小鴨に謀ていひけるは、爰にて敵をさゝへ給はる事此不勢にては叶候まじ。一先作州へ立越え給ひ、味方を諜し合せて戦ひ給へといさむ。小鴨は内通ありとはしらず、掃部が申所の謀しかるべしとて、郎等少く引連て磐梨郡を経て作州へ行く。十郎兵衛兼て思ひまうけし事なれば、掃部助一族をかたらひ其途中へ出で小鴨を討つ。小鴨は不意を討て郎等等十余人討死す。されども大和は覚ある士なりければ、度々返し合せては戦ひ戦ひては引取して、難なく美作へ落行ける。
嘉吉の乱後、赤松氏に代わって山名氏が備前を支配し、要衝福岡城は小鴨大和守が守っていた。これに対し、赤松氏は政則を盟主に再興戦を挑み、福岡城を謀略により奪取した。この戦いで難波兄弟の果たした役割は大きい。
しかし、難波次郎が支えた平家は西国の海に没し、難波十郎兵衛が支えた赤松氏も下剋上の荒波に呑まれてしまった。ここ殿谷城も宇喜多氏に奪われたが、難波一族は民間で生きながらえ、祖先の栄光を語り継いだのであった。私もささやかなこの一文を難波一族の諸精霊に捧げ、栄光と苦難の歴史を生き抜いてこられたことに敬意を表したい。