南朝と北朝はどちらが正しいのか、を論争した「南北朝正閏論」ほど、ナンセンスな議論はない。南北朝に正しいも間違いもない。二人の天皇が自分が正統だと主張したという事実があるだけだ。
ところが、明治44年(1911)に帝国議会では、南朝を正統とする決議が行われた。これにより、南朝は忠臣、北朝は逆臣という、ラベリングが進行したのである。
伊勢市岩渕三丁目の光明寺に「結城宗廣(ゆうきむねひろ)卿墳墓」がある。写真右の宝篋印塔である。
写真左は「結城道忠之碑」といい、大正六年(1917)に建てられた。「道忠」は結城宗広の法名である。黒ずんで読みづらくなっているが、重野安繹(しげのやすつぐ)の撰文である。重野は実証主義史学の大家として知られる人物である。
顕彰碑の大きさや有名な撰者から想像すると、結城宗広はたいへん立派な人物のようだが、正直なところよく知らない。調べたことを書き記しておこう。
結城宗広は白河結城氏の出身で、以前にレポートした下総結城氏の分家である。元弘三年(1333)、新田義貞とともに鎌倉幕府を滅ぼし、建武の新政では北畠顕家とともに奥州を平定した。建武三年(1336)、反旗を翻した足利尊氏が入京すると、すぐさま顕家とともに京に上り、尊氏を西走させた。
その後、京を奪回した尊氏を倒すべく、再び顕家とともに行動する。延元三年(1338)、顕家に続いて義貞が戦死すると、東国での南朝勢力の回復を企図し、吉野を出て伊勢大湊から出航した。この場面は『太平記』巻第二十「奥州下向勢逢難風事」「結城入道堕地獄事」の一部を読むこととしよう。
陸地は皆敵強うして通り難しとて、此の勢皆伊勢の大湊に集まつて、船を揃へ風を待ちけるに、九月十三日の宵より、風止み雲収つて、海上殊に静まりたりければ、船人纜をといて、万里の空に帆を飛ばす。兵船五百余艘、宮の御座舟を中に立てて、遠江の天龍灘を過ぎける時に、海風俄に吹荒れて、逆浪忽に天を巻き返す。或は檣を吹き折られて、弥帆にて馳する船もあり。或は梶をかき折つて廻流に漂ふ船もあり。暮るれば弥風あらくなつて、一方に吹きも定まらざりければ、伊豆の大島女良湊、かめ河、三浦、由比浜、津々浦々の泊りに船の吹き寄せられぬはなかりけり。宮の召されたる御船一艘、漫々たる大洋に放たれて、已に覆らんとしける処に、光明赫奕たる日輪、御船の舳前に現じて見えけるが、風俄に取つて返し、伊勢国神風浜へ吹きもどし奉る。若干の船ども行方もしらずなりぬるに、此の御船ばかり日輪の擁護に依つて、伊勢国へ吹きもどされ給ひぬること、たゞ事にあらず。何様此の宮継体の君として、九五の天位を践ませ給ふべき所を、忝くも天照太神の示されけるものなりとて、忽ちに奥州の御下向を止められ、則ち又吉野へ返し入れ進らせられけるに、果して先帝崩御の後、南方の天子の御位をつがせ給ひし吉野の新帝と申し奉りしは、則ち此の宮の御事なり。
中にも、結城上野入道が乗つたる船、悪風に放されて渺々たる海上にゆられ漂ふ事、七日七夜なり。既に大海の底に沈むか、羅刹国に堕つるかと覚えしが、風少し静まりて、これも伊勢の安野津へぞ吹き著けられける。茲にて十余日を経て後猶奥州へ下らんと、渡海の順風を待ちける処に、俄に重病を受けて起居も更に叶はず、定業極まりぬと見えければ、善知識の聖枕に寄つて、「此の程まではさりともとこそ存じ候ひつるに、御労り日に随ひて重らせ給ひ候へば、今は御臨終の日遠からじと覚えて候。相構へて後生善所の御望み惰る事なくして、称名の声の内に、三尊の来迎を御待ち候べし。さても今生には、何事をか思召しおかれ候。御心にかゝる事候はば仰せおかれ候へ。御子息の御方様へも伝へ申し候はん。」と云ひければ、この入道すでに目を塞がんとしけるが、かつぱと跳ね起きて、からからと打笑ひ、戦いたる声にて云ひけるは、「我已に齢七旬に及んで、栄花身にあまりぬれば、今生に於ては一事もおもひ残すこと候はず。たゞ今度罷り上つて、遂に朝敵を亡ぼし得ずして、空しく黄泉の旅に赴きぬる事、多生広劫までの妄念となりぬとおぼえ候。されば愚息にて候大蔵権少輔にも、我が後生を弔はんと思はば、供仏施僧の作善をも致すべからず。更に称名読経の追賁をもなすべからず。唯朝敵の首を取つて、我が墓の前に懸け雙べて見すべしと云ひおきける由伝へてたまはり候へ。」と、これを最後の詞にて、刀を抜きて逆手に持ち、歯噛をしてぞ死にける。
奥州へ向かおうとしたが、陸地は敵が強くて通りがたい。そのため、義良親王と宗良親王を奉ずる一行(北畠親房・顕信、結城宗広ら)は、伊勢大湊に集まって、船を準備し順風を待っていた。9月12日の夜から、風がおさまり空が晴れ、海がおだやかになった。船員がともづなを解いて、大空に帆を広げた。軍船500艘あまりが親王の御座船を中にして遠州灘を航行していると、にわかに風が吹き荒れ、激しく波立つようになった。帆柱を折られた状態で進む船もあれば、梶を失い流される船もある。日が暮れるとますます風が激しくなり、風向きさえ定まらない。伊豆大島、妻良、かめ河、三浦、由比ヶ浜など、そこここの浦に船が吹き寄せられた。義良親王の御座船は、大海の中で転覆しそうになったが、突然太陽が正面に現れたかと思うと、風の向きが変わって伊勢の神風浜に吹き寄せられた。いくつかの船は行方知れずになったが、この船だけがアマテラスの加護によって伊勢に吹き戻されたのは不思議なことであった。なんといっても、この親王は皇太子であり、ふつうに皇位に登るところであったが、アマテラスのおはからいで、奥州下向ができなくなり、再び吉野に戻ることとなった。後醍醐天皇が亡くなった後に南朝を継いだのは、この義良親王(後村上天皇)であった。
中でも、結城宗広の乗った船は、嵐に翻弄され海上を漂うこと七日七夜であった。海底に沈むか、はたまた羅刹国なんぞに漂着するかと思えば、風が少しおさまって伊勢安濃津に吹き寄せられた。ここで十日余りを過ごし、再び奥州へ向かおうと順風を待っていたが、急病にかかり起きることもできなくなった。寿命が尽き果てる様子だったので、高徳の僧が枕元によって「たいしたことはないと思っておりましたが、御病状が日に日に重くなり、御臨終もそう遠くないように見受けられます。後の世の安楽を望むのを決して怠ることなく、阿弥陀仏の名を唱え、お迎えをお待ちなさい。ところで、この世に何か思い残したことはございませんか。気になることがあれば、おっしゃってください。ご子息にお伝えいたしましょう」と言った。宗広は目を閉じかけていたが、ガバッと跳ね起き、カッカッカと笑い、響く声でこう言った。「わしはすでに七十を過ぎ、この世の栄華も過分に受けてきたので、この世に何も思い残すことはない。ただし、このたび、上京して朝敵を倒さずにあの世に行くことは、何度生まれかわろうとも我が心の妄執となるであろう。だから、息子の親朝(ちかとも)には、父の弔いをしようと思うなら、僧を招いて法会を営んだり、読経して供養したりする必要はない。ただ、朝敵の首を我が墓前に並べて見せるように、と伝えよ」この言葉を最後に、抜いた刀を逆手に持ち、歯ぎしりをしながら憤死した。
こうして宗広は、故郷に戻ることなく、京都奪回の夢もかなわず、伊勢の地で永遠の眠りについた。勝者か敗者かと問われれば、運が悪かったとはいえ、敗者に違いない。生前は上野介を称していたが、無位だった。ところが、数百年の後に大出世を遂げるのである。
明治になって南朝に殉じた者の功績が高く評価されるようになった。宗広は、明治十六年に贈正四位、三十八年に贈正三位、そして大正七年には贈正二位にまで昇る。前年に「結城道忠之碑」が建立されているので、この時期に顕彰運動が盛り上がったのだろう。
宗広が敵とした足利尊氏は、生前すでに正二位を授かっており、死去した年に贈従一位に昇った。新時代を切り開いた有能な武将として、今は知らない人はいない。しかし南北朝正閏論以来、皇国史観全盛期にかけては「逆臣」と貶められていた。
歴史上の人物の評価とは何なのか。歴史は後世の人によって語られるので、後世の評価が入り込むのは免れえない。生前に評価されなかった人物が、先駆的な事績を残していたとして、死後に高く評価されることはよくある。
現在の視点では、宗広は南朝勢力の一武将であるが、南朝正統論にあっては、忠臣の中の忠臣に見えたのだ。無位の宗広への贈位という厚遇は、勝者である北朝と尊氏に対する敗者復活戦だったのであろう。