「けれどもほんたうのさいはひは一体なんだらう」
こうジョバンニは問うた。カムパネルラに訊いたのだが、実のところは私たちに問いかけているのだと思う。幸せだとか不幸だとか人は簡単に口にするが、ジョバンニが問うているのは目の前の損得ではなく、「本当の幸い」であり、生きる意味を何に見いだすかという究極の問いでもある。
この問いにカムパネルラは答えた。
「僕わからない」
分からないからこそ、人は答えを求めようとする。そして行動する。ジョバンニは次のように言った。
「ほんたうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまはない」
自己犠牲の精神に価値を見いだしているのだ。
物語の終末で、カムパネルラは同級生を助けようとして川へ飛び込み、溺死してしまう。これを知ったジョバンニは胸がいっぱいになって何も言えなくなり、家へと駆け出すのであった。物語はここで終わるが、その後のジョバンニの胸に去来したのは自己犠牲という行いの意味ではなかったろうか。
鳥取県東伯郡琴浦町大字逢束(おおつか)に「種田山頭火句碑」がある。
日本海に面した山陰の広い風景の中に句碑は立つ。宮澤賢治とのゆかりは、ちょっと思いつかない。まずは説明板を読んでみよう。
山頭火句碑
種田山頭火(明治15年~昭和15年)は山口県防府市の大地主の家に生まれたが、早稲田大学中退後、大正14年出家得度し翌年から托鉢放浪の旅に出た。
山頭火はこの旅の中で多くの句を詠んだ。俳句の師は萩原井泉水。山頭火の詠んだ句は五・七・五の字数にとらわれない自由律の俳句として有名である。
この碑は50回忌の記念事業として建立されたものである。(県内ではこの時3個所建立、従来の物と合わせ6個所となった)
山頭火と碑について書かれているが、宮澤賢治は登場しない。やはり碑文を丁寧に読んでみよう。上から正面、左側、右側の順だ。
悼緑石
波のうねりを影がおよぐよ
夜蝉がぢいと暗い空
山頭火緑石君はまだ見ぬ友のなかでは最も親しい最も好きな友であった。一度来訪してもらふ約束もあったし一度往訪する心組でもあった。それがすべて空になってしまった。どんなに惜しんでも惜しみきれない緑石君である。あゝ。
昭和八年七月二十一日山頭火の日記より河本緑石は明治三十年倉吉市に生れ盛岡高等農林に学び倉吉農学校の教諭となり昭和八年七月十八日八橋海岸で水泳訓練中溺れんとする生徒と同僚を救助し自らは卅七才の身で絶命した。
其の遭難の海をのぞむこの地に緑石の心友種田山頭火の悼句と日記の一節を録しこの海の安全を祈願し緑石追悼の碑とする。
平成二季七月十八日 鳥取山陰山頭火の会 撰書岡島良平
揮毫の岡島さんは全国各地の山頭火句碑を手掛けている方だ。山頭火にふさわしい味わい深い雰囲気が出ている。碑には、山頭火が友人の河本緑石(かわもとろくせき)の死を悼んで詠んだ句が刻まれている。
緑石は大正五年、盛岡高等農林学校に入学し、宮澤賢治に出会うのである。緑石が溺死したのは昭和八年七月十八日、賢治が死去したのは同年九月二十一日。この二か月の間に、賢治が緑石の死に着想を得て『銀河鉄道の夜』のラストシーンを描いたのかどうか。
河本緑石はカムパネルラのモデルとされているが、他にも盛岡高等農林の同窓生である保阪嘉内(ほさかかない)や賢治の妹トシだという説もある。そもそもモデルを探求すること自体に意味がなく、賢治がカムパネルラを通して何が伝えたかったのかを探究すべきとの意見もある。
ただ、文学作品ゆかりの地だとか登場人物のモデルを訪ねるのは、ちょっとした聖地巡礼であり、観光の要素としては重要だ。砂地の海岸に建てられたささやかな句碑は、有名な俳人である山頭火、地元で文芸活動をした緑石を顕彰する文学碑であるとともに、モデル論的には、銀河鉄道を旅したカムパネルラ終焉の地と見ることもできよう。
本当の幸いは一体何だろう。僕分からない。ジョバンニの問いとカムパネルラの答えを、私自身が自問自答している。答えが見つからないまま時間ばかりが過ぎていく。とりあえず自らに与えられた使命に、あるいは自らが必要だと考えた課題に誠実に取り組むほかない。そのうち何か気付くことがあるだろうと思いながら。