臥牛山は母との思い出の場所である。それはまだ特急やくもが気動車だったころ、私が備中松山城を見に行きたいと言ったらしい。お城を目指して臥牛山を登っていると、おやつの入った私のカバンを何者かが引っ張る。サルだ。「なんもないよ」と説得を試みるも、どうにもならぬ。先を歩いていた母は私の声に気付いて戻り、窮地を救ってくれた。そう記憶している。
以来、トラウマもあって歩いて登ることはなかったが、此度、逆ルートで城に向かうことにした。搦手からの攻城である。
近年は「天空の城」が人気だが、備中松山城もその一つだ。雲海があってもなくても絶景ビューである。
駐車場から「大松山つり橋」を渡り、少し下ると「番所跡」がある。この先は「切通」と呼ばれる堀切で、同じ谷に今渡った吊橋が架かる。「切通及び番所跡」以下、下線部は国指定史跡「備中松山城跡」を構成する場所である。
坂道を上ると「大池」がある。プールのように整備されているが、これは近世期の水の手である。「血の池」という物騒な名称も伝わる。近くの説明板には、次のように記されていた。
備中松山城跡(国指定史跡)
この城跡は、相模国三浦氏の一族の秋庭三郎重信が承久の変(1221)の軍功で、備中国有漢郷(現在の高梁市有漢町)の地頭に任ぜられ、山陰山陽の交通路をおさえる要地として、臥牛山の一番高い自然の要がい、大松山に築城したことにはじまります。松山城は、631年間に城主39代、代官や城番を加えると実に19氏46代の交代がありました。このことからもこの土地が、軍備上非常に重要であったことがうかがわれます。
環境省・岡山県
このまま天守方面に向かわず、中世山城の最深部を探訪しよう。
高梁市内山下に「大松山城跡」がある。城跡はすべて内山下の区域に含まれる。
正面には井戸、右手に本丸、左手に二の丸、三の丸がある。備中支配者の居城に相応しい広大な空間である。説明板を読んでみよう。
史跡備中松山城跡 大松山城跡
標高470mの大松山山頂と西に延びる尾根上に位置しています。延応2年(1240)に有漢郷(現高梁市有漢町)の地頭であった秋庭三郎重信が築城したと伝えられています。臥牛山ではじめて城が築かれたところで、中世城郭の遺構が残っています。
東西に連なる6ヵ所の平坦面がみられ、周辺には腰曲輪と考えられる小さな平坦面が数ヵ所、井戸と考えられる石組遺構が1ヵ所あります。平坦面は東から本丸、二の丸、三の丸と呼ばれており、二の丸と三の丸の間には堀切があります。発掘調査によって、この堀切は箱堀状であることが分かりました。また、本丸と二の丸の間にも堀切が存在する可能性が高くなっています。
平成23年3月 高梁市教育委員会
築城は延応二年(1240)であり、令和二年(2020)には築城780年を祝ったというから、築城400年を迎えた昨年の福山城、今年の島原城など、ひよっこのようなものである。
途中に大きな木が倒されていた。林野庁「森の巨人たち百選」に岡山県内で唯一選定された巨樹である。平成17年に枯死し、同29年に伐倒処理されたという。
臥牛山の最高所に「天神の丸跡」がある。説明板を読んでみよう。
史跡備中松山城跡 天神の丸跡
標高約480mの臥牛山最高峰天神の丸の山頂と南北に延びる尾根上に位置しています。天正2年(1574)に備中松山城主の三村氏と毛利氏との間で起こった備中兵乱で、最初に陥落したところといわれており、中世城郭の遺構が残っています。
尾根上に5つの平坦面が連なって築かれ、北側から本丸、出丸と考えられています。また本丸と出丸の間には深い堀切がみられます。
本丸には、「天神社」という神社があったことが江戸時代の絵図からうかがい知ることができます。創建は分かっていませんが、慶長年間(1600年ごろ)の絵図に描かれているのが最も古く、このころにはすでに創建されていたと推定できます。天神社は、明治初期までここにあったといわれており、その後、荒廃したため、現在は城下にある寺町の龍徳院に祀られています。
平成23年3月 高梁市教育委員会
備中兵乱で最初に陥落した場所だという。『備前軍記』によれば、難攻不落の大松山城が落ちたのは、河原六郎左衛門(伊賀久隆に仕え、後に小早川家に移った武士)が間者として城へ入り込み、内応を誘って天神の丸を乗っ取ったことがきっかけとなった。
天神の丸から南へ進むと「相畑城戸(あいはたのきと)跡」がある。写真は東に伸びる尾根を断ち切る大きな堀切である。中世山城らしさが感じられる。
「小松山城跡」に入るには「土橋」を渡らねばならない。中世山城時代の土橋が、堀切として石垣化されたのだろう。
いよいよお城が近付いてきた。国指定重要文化財の「備中松山城 二重櫓」である。
そして、同じく国重文「備中松山城 天守」である。現存十二天守のうち唯一の山城で、最も規模が小さい。天守も二重櫓も水谷勝宗(みずのやかつむね)の時代に整備された。天守手前の建造物は復元された「五の平櫓(ひらやぐら)」である。
母と一緒に天守に入ったはずだが、よく覚えていない。サルで頭がいっぱいになったのだろう。そういえば、ここは「臥牛山のサル生息地」として国の天然記念物に指定されている。小さな私は文化財に襲われていたのだ。