ココリコはお笑いコンビかと思ったら、ニワトリの鳴き声であった。フランスではCo Co Ricoと朝を告げているのだとか。我が国でもコケコッコーとなくようになったのは近代であって、古代から中世にかけてはカケロ、近世にはトーテンコーと鳴いていたという。本日は鶏の鳴き声にまつわる峠の話である。
宍粟市千種町岩野辺と同市波賀町斉木の境に「鳥ヶ乢(とりがたわ)」がある。かつては千種町と波賀町を結ぶ国道429号の一部であったが、現在は鳥ヶ乢トンネルで快適に抜けることができる。
峠道なのに緩傾斜に見えるのは、道が尾根筋に沿っているためだ。写真では左側が斉木である。私は岩野辺側から峠までの往復だったから、それほどにも思わなかったが、斉木側はずいぶん急でウネクネしているようだ。
モニュメントには鶏冠があり、ニワトリが関係していることが分かる。下部の説明板を読んでみよう。
トリガタワの由来
その昔、千種町岩野辺と波賀町斉木との境界の峠に観音様をお祀りしたお堂があり、両町から村人が参っておりましたが、ある日、双方の村人がお互いに自分の村にこの観音様を持ち帰りお祀りしたいといいだし、この峠で話し合ったがどちらも譲らずタ方になっても決着がつかないので古老の提案で、明日の朝一番、鶏の声を合図に村を出て早くここに来たほうが連れて帰ることで話し合いがつき、夕闇の中、それぞれ村に帰っていきました。岩野辺の人々が山をおり高橋の所まで帰ったとき、急にあたりが夜明けのように明るくなり大石の上で黄金の鶏が目前に現れ大きく羽撃き、「コケコーロー」と天に向かって鳴いたので村人は大変不思議なことが起こったと驚き、これは、観音様が岩野辺に来たいというお告げに違いないと、早速引き返して観音様を大切に持ち帰りお祀りしたそうです。
これが現在、岩野辺福海寺の本尊だと言われており、その頃からこの峠を「トリガタワ」と呼ぶようになったそうです。
ここではコケコーローと鳴いている。実際に近いのはこちらだろう。岩野辺と斉木による伝説上の争いは岩野辺が勝利している。峠をより強く意識していたのが岩野辺側だと分かる。峠を示す石碑には「ちくさふるさと街道 トリガタワ 千種町」とある。峠の岩野辺側すぐに内海という集落がある。ランプの時代、切らした石油を慌てて買いに行ったのは、峠を越した斉木側だったという。生活に必要な峠だったのだ。(参照『ちくさの蹤(あしあと)』)
また、生野の変に失敗した澤宣嘉(さわのぶよし)一行4名は、10月13日夜、本陣としていた代官所(朝来市生野町口銀谷)から逃亡し、栃原山(朝来市生野町栃原)を越えて15日朝に宍粟郡白口(宍粟市一宮町福知)の村上平次郎方に辿り着いた。その後は、上野(宍粟市波賀町上野)から鳥ヶ乢を越えて、千草(宍粟市千種町千草)の平瀬戸一郎方に泊まり、作州へ落ち延びたという。(参照『生野の変余聞』『ちくさの蹤(あしあと)』)
私は鳥ヶ乢トンネルを抜け国道29号へ出て鳥取県に遊びに行ったことがある。快適なドライブだから何とも思わなかったが、私とは逆方向に鳥ヶ乢を越えた澤卿一行は、いったいどのような思いだったろう。維新の魁と高く評価されているが、それは後になって言えること。逃避行は死と隣り合わせだったに違いない。今はただ鶏冠のモニュメントが、静かに峠名の由来を語るのみである。